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ロイロノート活用事例その②です。

今年の修学旅行先の一つに大塚国際美術館があります。以前、本ブログでも取り上げたこともありました。大鳴門橋の徳島県側の袂に位置します、1000点を超える実物大の陶板名画を展示する、全見学ルートの総延長が4kmにも及ぶという壮大なスケールの美術館です。

西洋美術史をそのまま教材にして学習する機会はなかなかありませんし、ましてや、このほぼほぼ有名どころを網羅した美術館に向けた事前学習というと、正直途方に暮れます。

そこで、時数を喰われないで、おそらく最も効果的と思われる活動を考えました。

それは、「大塚国際美術館にある名画、あなたのおすすめを紹介しよう」というものです。

特定の作家や美術史時代区分に集中するのを避け、一人ひとりにとって親密な作品との出会いを持たせたいと考えたからです。

4kmと聞くと、何だか秒で通り過ぎても仕方がないように思えますし、子ども達は悪気なく真面目に全行程を進もうと考えると思います。そのため、軽重をつけることができず。キャプション頼りにじっくり味わうことも出来ないまま、時間が過ぎるか、全部は見れないからと最初から諦めて、いくつかの場所で待機することになり兼ねないのです。

なので、それならばということで、絶対この作品は外さずじっくり見るぞという作品をつくっておいて、作品に会えた、こんなサイズの作品だったか、おお、よく見ればここにこんなものが描かれていたのかと、何度も何度も、何なら、一緒に鑑賞している仲間に、この作品はねと、語り出すくらいの勢いで自分ごとにして鑑賞してほしい。そんな思いで取り組むことにしたのです。

調べる資料がインターネット頼りだったりして、安直で、浅いのが不満ではあるけれど、ホント、数多ある作品から私が決めて解説するとなると、非効率極まりないですからね。

夏休み明けに提出箱に提出された生徒たちのノートを大画面で紹介し、これはという作品には蘊蓄を加えて、どうにかこうにかお披露目して、旅行当日の鑑賞タイムを有意義なものにしてやろうと考えています。

ノートの提出期限は夏休み明け登校初日の日付変更時。既に動き出している生徒はまだまだ4人程度ですが、この先少しずつ提出がされてくるかな。


*入力はポメラのBluetooth機能を試してみました




大概決断が早いよね、ってよく言われます。
検討します。が、1週間という期間は取れず、ポチってしまう。

到着しましたよ。念願のポメラDM250です。専用のアルミケースも併せて購入いたしました。

ポメラ到着!!DM250来た〜_f0008085_11580781.jpeg

早速、使ってみようと思います。

まずは、親指シフトシールはこの際必要ありません、と。

そして、TYPE-Cの充電ケーブル接続。「本機の充電は必ず付属のACアダプタ、USBケーブルをお使いください。」なるほど、不具合が発生する可能性があるのね。たしかに黄色い紙が箱を開けてすぐに目に飛び込んできました。

開封の儀を写真に収めようとしたら、「pomera」のロゴが一瞬だけ点灯したんですよ。撮影、間に合いましたね。後からは開けると直に起動するので、ロゴを拝むことが出来ません。

この記事はまだスマホで直接書いています。フリック入力はミスが多くて、結構時間がかかるものです。

ここからポメラで入力した文章です。

打鍵感。カチャカチャと苛立つような音はないですね。ポチポチといった音でしょうか。
キータッチは少し重め。しっかり押す感じですね。キーは浅いですがもっちりとした打鍵という印象。決して悪くないです。

変換。ミスタッチするとすぐに気づきます。変換はリアルタイムといった感じで、誤変換は少なめな気がします。文節を間違える、つまり、「な印象」を「ないんしょう」と打つと「ナイン賞」と変換して返します。「と打つと」を「とうつと」と打って誤変換した際に、「と」と「うつと」に再入力して正しく変換し直してから、「とうつと」と打つと「と打つと」に変換されました。学習効果が発揮されています。(早口言葉かっ、笑)

画面。まぶしい印象はありません。とても見やすい。文字数は読みやすい範囲で左右の画面横の余白も慣れれば気になりません。余計なものが一切なくて清々しい位です。これらの画面はデフォルトの設定の使用感で、今は全画面表示。もちろん画面設定のオプションというかカスタマイズは可能です。

メニュー。menu helpキーを押せば、画面の上にタブが並び、escキーで編集画面にすぐに戻ります。シンプルで直感的。書く機能に特化した潔さはポメラならではです。

この後、書いた文章を送る通信を試したいと思います。

iphoneにpomera linkをインストールしたら、カメラをかざすだけでQRコードを読み込み、瞬時に文字を取り込みました。ブログ編集フレームにコピペしたら、結構な文字数もスムーズに記事にできます。これが何よりの機能だと思います。

ブログを再開して一週間。始めると入力作業に時間がかかります。今は夏休み中だから平気でも、学校が始まったらなかなかそうはいかないはず。

こんなに早く記事が書けるのは感動です!

後は、ブラインドタッチがちょっぴり怪しい時があって、バックスペースキーの使用率をなんとかすれば高速快適ブログ入力となること間違いなしです。

いやあ、納得、納得。
よい買い物をしました!

夏休みの宿題に「ロイロノート」の活用を取り入れました。

本校赴任して2年目、ようやくこの夏休みに本格的にGIGAタブレットの持ち帰りが始まりました。他校に比べると随分遅くなってしまいました。本校でも、もちろんタブレットの導入がされてはいましたが、授業中、生徒たちの必要な場面ではノートPCが使えましたし、「学習系」という生徒たちが自由に読み書きができるサーバーもあって、ほぼ毎時といってもいいほど、便利に使えていたので、授業でタブレットPCを使う場面がほとんどありませんでした。

ところが、この夏休み中に、便利使いしていた学習系サーバーが廃止され、ノートPCも撤収が決まったというので、急遽タブレットPCを使う展開になったのです。(たぶん、委員会のねらいは逆順でしょうけれど)

持ち帰りの利点を活かして、今年は夏休みの宿題の仕方を変えることにしました。

先ずは1年生の「うつくしい!探し」について。

自分が美しいと感じた何かを創造ノート(クロッキー帖S)に、直接絵で描いたり、写真を撮って(プリントして)貼ったりして、それがなぜ美しいと感じたのかを自分の言葉で説明する、これがこれまでのやり方です。

光村の教科書に、全国の生徒が見つけた「うつくしい!」の写真が、本人たちの短いコメントと共に、口絵見開き3ページいっぱいに並んでいます。

前任校は大規模校でしたから、美術教員は2名配置でした。赴任する前から「発想ノート」と名づけてクロッキー帖Sを活用されていて、研修会で発表された長期休業中の課題「うつくしい!探し」にも注目していました。前述の教科書に載っている生徒作品に通じる実践です。赴任して、もう1人の指導者と話し合いを重ね、今後は学年毎にテーマを変えて、課題の取り組みを通じて学年を重ねるごとに本人たちの捉え方が発展していけるように、私なりのアレンジを加えて三学年で取り組ませるようにしました。

現任校でも「創造ノート」として主に授業の足あとを残すべく使っています。なので、今回も、このノートを持ち帰って例年通りに取り組ませることは出来たのです。

けれど、普段の授業でノートPCに変えてGIGA端末を使う実践を進めていく必要から、私自身が使えるようにならなくてはならず、あえて宿題として活用することに決めたのです。

夏休みの宿題というと、用紙を渡し、描かせて提出させる、作品制作を課す学校もあるでしょう。生徒作品展に出品される作品の多くは、そうした長期休業中に取り組ませただろう、緻密な描画作品です。

前任校に赴任して以来、その考えはなくなりました。

今回のような「うつくしい!探し」は、なぜ美しいと感じたのかを言語化して、本人の中で、一般化させようとする取組みです。であるなら、思考の過程を繋いでつくる、ロイロノートはその意図にふさわしい仕組みを持っていると考えました。

授業で、課題の考え方と取組み方、そして作ったノートの提出の仕方をやらせてみながら、オリエンテーションしていきました。

まずは、教科書の生徒作品でお気に入りを見つけて撮影します。これで、内蔵カメラを使って取り込む方法も習得します。もちろん、彼らがうつくしいと共感するものを探させるのがメインですが。

では、なぜその写真を選んだのかを考えさせます。入力ツールを選択させるとカードを追加できます。ある生徒は、ハート型に並べた水滴の写真を選びました。それに、なぜ心をひかれたのかを「水滴がビー玉みたいにキラキラしていて綺麗だったから(*^ω^*)」と書きました。

ここまでのノートを仮に設定して置いた提出箱にドラッグアンドドロップで提出させます。この作業は本人たちが更にノートを追記しても、同じ動作で上書き保存されるので、途中経過で一旦提出しましょうと声を掛けて待ちます。

さて、先程の生徒。「ビー玉」、「キラキラ」。2つのキーワードが出てきました。綺麗と感じた要素をさらに追求させて、自分の「うつくしい!」に展開させる必要があります。そこで、準備室で見かけたビー玉を探しに行きます。

小規模校である本校の準備室には、大工道具から理科の実験道具など、ありとあらゆる道具、素材、資材、文具、裁縫道具、…何でも揃うので、かつて見かけた物なら探せば見つかるはずです。

はい、見っけ。生徒にビー玉を渡して観察するよう提案します。

教科書のお気に入りは他人の作品です。うつくしい!探しでは、自分で見つけて撮影した作品を提出して下さい。そう加えます。今回の授業で使った教科書は、うつくしい!探しの入口に過ぎません。これが綺麗だ。こうすればもっといい。こうならばどうだ。と、自分なりに試行錯誤して手に入れなければなりません。

その生徒は、手にしたビー玉を作業机の上にいろいろに並べて撮影して、その中から2枚選んで提出、ノートに追加され、上書き保存されました。

写真が撮れたら、どこに魅力を感じるのかをカードに書きましょう。

生徒は次のカードに、「ビー玉と影が綺麗にキラキラするようにした☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆」と書きました。カードには、「影」が追記されました。観察の中で、キラキラする光だけでなく、影にも気づいて、それを効果的に見せようと、試行錯誤する自らの姿を書いています。そう、「キラキラするようにした」です。

前任校の過去の実践発表では、1年生の宿題に、「キラキラ輝くうつくしい!」を課し、身の回りの光り輝くものを集めさせていました。この世界は光に満ち溢れ、数え上げたらキリががないほど、さまざまに光り輝く様を見つけることができます。

うつくしい!と感じ、その美に対して納得のいく説明を試み、自らそれを意図してつくろうとする。美術の育てたい資質、能力の基盤がここにあるのではないかと思うのです。

一方で。

もう1人の生徒は、ものの数分でこのノートを提出して来ました。雪の中にある綺麗な木を選び、昔から雪が好きだからとその理由をカードに書きました。その後、助言を捉え、雪の結晶を追加しました。その画像はネットから拝借して貼り付けています。そしてそれ以上の展開は見せませんでした。

そこで。

授業が終わってから彼に代わって続きを考察してみました。

雪が綺麗なのはなぜなのか→結晶がうつくしい→対称形→六角形(幾何学模様)→どれも違う形→すぐに融けてしまう→儚い。儚さにこそうつくしさがあるのか。では、私が展開するうつくしい!は儚いものを元に考えよう。ならば、融けるもの=氷、雪、アイス。すぐに消えてなくなるもの=花火、霧、雲…。雫も儚いものだな。

いや、それはその生徒が考えなければ、との声が聞こえてきそうですね。

私達のこの世界には、うつくしい!ものが確かに無尽蔵にあるはずです。しかし、それをどれくらい取り込むことができているでしょうか。うつくしい!と感じる感性が育ってないと、いたずらに見過ごして行くのではないか、また、その価値に対して無理解無関心で、理不尽な破壊に繋がりはしないかとも。

だからこその、言葉にして自分の中で一般化してみる作法だと思います。

このワークを繰り返して、うつくしい!を認識する作法を身につけさせ、他者理解をしつつも、自分の感性を自ら育てていく人を増やしていきたいと常々考えているところです。

今回のこの課題は初めて取り入れるロイロノートのお試しのようなものながら、実は深い意味もあるんですよね。久々の授業報告でした。



2021年1月、母の月命日に父は他界しました。

女の子はお父さんに似ると言います。父は祖母に似ていて、だからなのか、私は祖母に似ていて…。

血液型も父とは同じ。新しいもの好きなところ、好奇心旺盛なところ、顔つき、美味しい肴でお酒をいただくのをこよなく愛していること、帰省すれば、ずっと横にいて一緒に過ごす。パパ(夫)に言わすと、父と私とは"相似”らしい。

子どもの頃は、兄妹3人よく叱られたので怖い父でしたが、息子ができてからは、京都にも度々来てくれて、よく観光に連れて行ってもくれました。もちろん夏休みに息子と帰省するとあちらこちらに。優しいし、勉強家だったから、話していても、ちゃんと応答してくれる人でした。

父との思い出は数え切れないほどあります。

晩年、息子が大学院を秋に卒業して、ギャップイヤー(半年間ながら)のとある早春、豪華客船での沖縄クルージングに誘ってくれ、2人で出掛けたのです。今から10年近く前になるかしら。就職前の息子と80過ぎの父がどんな旅をしたものか。そしてどんなお話をしたんでしょう。

私が少し歳を取ったなと感じたのは、藤枝市の名勝「宇嶺(うとうげ)の滝」(別名お君の滝)に車で出かけた時でした。普段のお出掛けが自家用車ばかりだからか、運動不足らしく、滝までの少しの高低差で息を切らしていました。母がその頃入院していて、着替えや日用品を運んでいたはずですから、車での移動程度しか活動をしていなかったのだと思います。

帰省の折の最寄り駅までの送り迎えも、兄がしてくれるようになって、程なく、免許を返納したと聞きました。車に乗らない生活は、お医者様以外は外に出ない引きこもったような生活に繋がりました。兄によると、デイケアも面倒がって行かないと言い出す始末だったとか。

二人目の姪の結婚式では、入院先から車椅子で参加した母と、杖を突いた父の姿がありましたが、母が亡くなった年の9月に行われた下の兄の娘の結婚式にはもう出席出来ないくらい足が弱っていました。

家を一歩も出ず、食事も義姉が用意したものを残すようになって、いつ何をどれだけ食べたのかわからないと兄が言っていました。

ほとんど自室のベッドで寝て過ごすようになった頃、母の一周忌を迎え、一同が会しました。3月初めに披露宴を行うことになったから、東京に来てほしいと息子が誘ったものの、体力的に厳しいと、意に反して参加することは出来ませんでした。

寝たきり、食欲なしの状態が続いて、居ても立ってもいられない、今度こそは看てやりたいと思いました。が、世の中は変わってしまいました。

コロナ禍。移動自粛の機運は当然、私達の行動を制限するものでした。父の状態はずっと気になってはいましたが、時既に遅く、県を跨いでの移動が憚れる時節になってしまったのです。

今でこそ、これほどまでに感染が拡大しているにもかかわらず、行動制限のない夏を過ごしていますが、2020年の夏はそうではありませんでした。県を跨いでの移動が元で感染が起こると、バッシングに曝される。コロナ関連のネットニュースのコメント欄には、犯人扱いで語る、〇〇警察が沢山いました。

兄から、父の下の世話で限界だとの悲鳴に似たメールが届き、専門の介護をお願いするようアドバイスしました。義姉にはさせられないからと、兄が抱え込んでいたようです。正直にいうと、私にだって難しいことです。自分がされる立場だったら、身内に下の世話をしてもらうのは切ないことです。

2ヶ月後、今度は入浴介護を受けている途中に意識を失って救急搬送するとのメール。これは「不要不急」なことじゃないから、今すぐ行くと返信して支度をしていると、下の兄も駆けつけ、容態は安定、本人は今横に車椅子に乗って普段通りだから、とのメール。病院でCTも撮って異常は無いから来なくていいと。ひと安心するも、これって、いざという時に諦めさせられるのかもしれない、そんな風に心がざわつきました。

年末になって、母の三回忌は2月某日に、地元に住む家族だけでやるからと報せがありました。この時勢、仕方ないね、よろしくと返事をしました。母にお別れの言葉を送ってくれた姪も、他県に在住しているので、参加できないとも。

ところが、その三回忌を待たずに、突然父の訃報が届いたのです。急な電話でした。いつも通りに介護士さんにトイレの世話をしてもらって、書類を記入して、一度部屋を見に行った所、父が欠伸をするような姿で、息をしてない様子に気づいたというのです。父は誰とも話すことなく、一人で最期を迎えました。

コロナ禍、葬儀の段取りが二転三転しました。濃厚接触者の定義を踏まえて、ホテルに泊まるか自宅に泊まるか。東京からの息子は別室で対応、云々。食事も、黙食、他県同士はなるべく離れて着座。家族以外は持ち帰ってもらい、着座無し。飲食時以外はマスク着用。会話は出来るだけしない。だからお構いできないけどすまない、と兄が申し訳なさ気にメールをしてきました。

葬儀は一週間以上過ぎた月末に行われることになりました。居ても立っても再び。しかし、段取りは兄たちが協力して決めるから、お前が来てもやることはないからと諌められ、その代わり、お別れの言葉を子代表で頼む、それから孫代表で息子くんに頼む、よろしくと。

そうか。今更駆けつけた所で何が出来るものでもないか。それならば母の時に遺体の横でやっていた作業、あれをこっちでやりきってから父の元へ行こう。前の年と同じ題材をその年に持っていた3年生でも取り組んでいました。この年は、指導者2人で分けて受け持っていたので、作業量は半分くらいに減りましたけれど。

父が綺麗になって(エンバーミングを施されて)自宅に戻ったと連絡がありました。オシャレな父が好んで着ていたジャケットを着せて、枕元では、父が集めたジャズをかけてやっているからと。家で納棺して、葬儀会場に安置するから、来るのは会場でも構わない。

当然、お家にいる内に会っておきたい。私は一足先に新幹線に乗って実家に帰りました。ジャズは流れていなかったけど、父とようやく対面出来ました。食欲を失って、寝たきりで過ごした日々は父の肉を容赦なく削ぎ落としていました。私の知っている父が二回り以上小さくなっていました。頬はこけて、脚などはズボンの中にまるで木切れが仕込まれているよう。遅くなったことを詫びながら、うゎんうゎん声を上げて泣きました。

後からパパと息子が連れ立って到着すると、兄がジャズのCDをかけ、また最期の時の経緯を説明しました。今は綺麗にしてもらって見られるけど…と、ここでは書けない話まで。

息子が、マッカラン18年を父の枕元に置いて、父との約束を教えてくれました。まだ就職前のある日、父に手土産として、マッカラン12年を渡した所、「お前、もっと稼いで、18年を持ってこい、これじゃなくて。」と父。「わかりました。待ってて下さい。」息子はそう約束したというのです。「ごめんなさい、間に合わんかった。」息子は父にそう言って枕元で静かに泣きました。

納棺は男手を中心にみんなで慎重に行いました。式場に着くと、既に親族たちが次々に到着していました。母の時と同じ会場。勤務校から管理職連名、PTAの2つのお花が届いていました。ありがたいことです。そして何より違ったのは、和尚さんの読経以外はずっとジャズが流れていることでした。スウィングジャズ。意識していないと自然に身体が揺れてしまいます。


告別式で、父の遺影に向かって、子代表、孫代表でお別れの言葉を述べました。父、祖父との思い出話を存分に話し、お別れをしました。それから出棺を前に、父の好きだったジャズが流れる中、棺におさめる諸々と花が参列者の手により埋め尽くされました。

斎場にバスで移動。私は遺影を抱え持ちました。母の時と違って、待機場所では、距離を置いて座り、黙食。話す時はマスク。自ずと静かな空間が出来上がります。

お骨。痩せ細っていた割には太くてしっかりしていました。綺麗な喉仏さんが紹介されましたが、私の注目はエラのお骨。私と父と祖母、なんなら、家系を代表する特徴を持った部分の骨です。それを拾って骨壺に納めました。父の死をしっかり見届けた時間でした。

コロナ禍にあって、変えざるを得ないところもありましたが、その中でも何とか各方面が工夫して故人を偲ぶ会が出来たのではないかと思いました。不要不急ではない、大切な場面で、それぞれが出来る最善を尽くして臨むこと。得心がいく対応を心がけて、人とのおつきあいを大切にしていければいいと学んだ機会となりました。











本ブログを休止していた7年の間に、両親と義母が他界しました。2年余りの間に次々と、離れて暮らす3人はそれぞれ看取ることが叶わないまま…。

まずは母のこと。2019年2月でした。

*注(これは私の個人的な備忘録です。長文お許しください。)

母は6年間医療付老人施設で過ごしました。60代から脳梗塞、鬱病、認知症、大腿骨骨折を経て、70代後半に、父と兄夫婦同居の家で生活していくことが限界を迎え、入院となりました。

退職して悠々自適の父と公務員同士の兄夫婦家族。認知症の母は、図らずも家族に長く辛い日々をもたらしたようです。年に1〜2回息子を連れて帰省する毎に、認知症の症状がどんどん進行していくのが分かりました。一度具合を悪くして入院した母を見舞った折には、既に私のことは、末娘であることすらおぼつかなくなっていました。以来、息子とは離れて暮らしていることもあって、ほとんど帰省することも無くなった私。時々、兄や義姉から聞かされる母の奇行と、それに向き合えず声を荒げる父。母の問題行動によって、家庭崩壊に直面している様子を聞くにつけ、返す言葉もなく、ただただ申し訳なく思う私でした。その後、程なくして老人施設にお世話になることが決まりました。

それから6年。母を最後に見舞ったのは亡くなる年のお正月。息子が結婚を決め、実家に婚約者を紹介する運びとなって帰省した折でした。入院先での母は、ベッドに横になり、下の兄や息子の声掛けに、少しだけ目を開けると、また目を瞑り、うとうとしたようでした。

その母がいよいよ、という連絡が兄からもたらされたのは、小康状態にあるのでまだ帰って来なくてもいいだろうと言われた一週間後でした。息子たちが、婚姻届の保証人としてサインが欲しいと、東京から二人してやってくる新幹線に乗り込んだ、ちょうどその時間。私は何度となく実家に帰って看取りたいと申し出ていましたが、喜ばしい件のサインを先に延ばすことはないとの兄の勧めで、京都に帰ってくる息子を迎えることにしたのです。

病院に向かっている所だが、夕刻の渋滞でなかなか進まないと焦った声色の、その日2回目の電話…。そして、その日3回目の電話は程なくかかって来ました。母は兄達の顔を見ると、ゆっくり静かに長く息を吸って、そのまま臨終を迎えたと。兄夫婦の到着を待って最期まで頑張り、家族に看取られて逝った母でした。

3回の電話を出先で受けて、私は家路につきました。道すがら、涙が止まりませんでした。離れて暮らす父母の臨終を看取ってやれないやるせなさ。

こんなことを言うのは悲しすぎるのですが、2月の最終週を控え、卒業していく3年生の作品完成の為に他教科の先生にお願いして、何時間も授業をもらい、9クラス均等に制作時間を確保する計画の真っ只中。空き時間も割く日々。自ら多忙を招くような仕事を日常としている中で、どこか覚悟していたところがあったかもしれません。けれど、なんとか工面すれば行ってやれたか。

仕方がなかったのだ、という思いと、何がなんでも行くべきだったのでは、という気持ちがないまぜになって、揺さぶられる。

母が亡くなったことを帰省した息子達にすぐに告げることは避けました。パパと話し合って先延ばしにすることにしたのです。

嬉し恥ずかし、幸せを絵に描いたような二人。酒宴もほどほど、次の日の朝、取り出した婚姻届に、パパ、息子、嫁の順にサイン。お祝いを渡し、笑顔溢れる姿をたっぷり撮影したのち、実は…と、訃報を告げました。

お正月に見舞ってくれたこと、兄と義姉が看取ってやれたことが、せめてもの救い。感謝を伝えて二人を送り出しました。その後、東京で無事に届出を済ませて、晴れて夫婦となりました。

母の葬儀は、6日後に執り行なわれました。前夜に母にようやく会うことが出来ました。対面して初めて知ったのですが、母にはエンバーミングが施されており、美しい寝顔で、少しも苦しげな様子はありませんでした。

下の兄の家族と一緒に、式場で一夜を過ごしました。私は最後の授業で、篆刻作品を入れる紙箱に、和紙千代紙を貼ってプレゼントすることにしていましたので、母が眠るその隣で、作業をさせてもらいました。平日の告別式の為、授業変更をお願いして2日の忌引を取りました。学校に戻れば、すぐに授業が待っています。少しでも作業を進めておく必要がありました。

さて、告別式。パパと息子は通夜の後、前泊したホテルから到着。家族、親戚一同でお別れをしました。

式場には、母の生前の写真などが飾られ、老人施設でスタッフに囲まれて満面の笑みを浮かべている姿も。決して悲壮な晩年ではなかったのだと、改めて思いました。

お別れの言葉で、下の兄がさまざまなエピソードを紹介してくれたので、母との記憶が沢山蘇りました。私は小さい赤ん坊だったことは聞かされていましたが、帝王切開で産まれたとは知りませんでしたので、とても驚きました。兄が最後に懺悔のような挨拶をしたので、ヒヤヒヤさせられもしました。また、姪の言葉からは、明るく優しかった母の姿が思い出されました。

斎場でお骨を拾いました。真っ白なお骨に混じって、みどり色の重そうな金属らしき塊。骨折した大腿骨の代わりにつけられたものです。こんな大きな金属が埋め込まれていたのだと思うと、本人にしたら一大事だったのだと思い知らされます。この骨折を機に、畳の生活が出来なくなりました。

葬儀が一通り滞りなく行われ、続く会食では、母の施設での写真も回し見るなどして、母を偲びました。

京都に戻る新幹線の中で、授業で生徒に渡す、卒業を祝うプレゼントの準備を続けました。手を動かすことで悲しみを紛らすことができたのかも知れません。

専業主婦も周囲には沢山いた時代に、ニッセイのおばちゃんとして、スーパーカブや軽自動車を飛ばして、働いていた母には、自分達は爪の先に火を灯すような暮らしをしても、子ども3人を大学に行かせてくれたことへの感謝(生前、帰省するたびに耳タコほど聞かされてきました)の念を伝えても伝えきれません。