恩師、そして原点。
先生と教え子のコラボレーション 『岐部琢美』展
会期は4月30日~5月6日まで。静岡県藤枝市にあるアートカゲヤマ画廊にて開催。
先月、高校時代の恩師である岐部琢美先生が退官されると聞き、教え子が集まって「囲む会」を開いた。私の学年から全く知らない代のメンバーも集まっていた。師は武蔵野美術大学を卒業して、37年間県立高校で教鞭を執りながら、独自の「鉄」の世界を築いてこられた彫刻家である。今回の展覧会は師の作品と共に、師が赴任した4つの高等学校の教え子のうち作家として活動している者やデザイナー、会社経営者、学芸員などがそれぞれの仕事に絡めて出品し、開催しているものである。
私はこれといった作品もHPも持ち合わせていないので参加は辞退したが、師への思いは決して他のメンバーにひけをとることはないと自負している。
母校、藤枝東高には私が1年生の時に師は赴任してきた。まだ30歳になったばかり。甘いマスクで高校生の私でさえ色気を感じる魅力的な美術教師だった。
赴任早々、物置同然だった美術準備室を教官室として再生。電気ポットでお茶を沸かす、その教官室では「美術手帖」はただで見せてもらえるし、なにより生徒作品の魅力を本当に感心したという感じで話してくれる先生の言葉や、印象に残っている作家ではジャコメッティーのことを熱っぽく語ったり、自らの彫刻について語ったりするお話を聞くのが楽しみだった。
そしてその空間は美大受験のための指導室となった。夏を過ぎると美大受験を目指した先輩がデッサンを始めた。地元では進学校としてちょっとは名が通る学校だったが、美大ではあまり実績があったとは記憶していない。
師が最初に指導したのはM女史。中学校では水泳部で鍛えた私。美術部にいることが美大へつながることなのだと、そのとき初めて自覚した。
次の年、ストイックとも言える1年上の先輩が、やはり学芸大を目指して指導を受けていた。教官室に踏みいることは自然と憧れとなった。もちろん、部員が教官室に入室することは当然あったが、そこでイーゼルを立て、直接の指導を受けたいという思いはいや増しに増した。
そして3年生になった春から私は、受験で合流したメンバーと共にデッサン指導を受けた。いつか先生と同じ世界に身を置いてみたいという思いが美大志望へと駆り立てた。
すでに兄2人は京都の私大に通っていた。私はどうしても進学したい。美術部に入り、日がなデッサンや油絵に熱中する姿に、薬剤師を薦めていた父は、その願いを取り下げ、夏休みに2週間の名古屋での夏期実技講習会に参加させてくれるまで理解を示してくれた。
美術に進む。その志望は固かったが、浪人はできない。しかも末っ子で女の私が親に願い出るには国立大学しかなかった。
そんな私に先生が示して下さったのが京都教育大だった。前任校の教え子が行っている。私にはうってつけの大学だと薦めて下さった。同じ教育学部でも地元の大学には全く食指が動かなかった私は、強い憧れを持って志望することとなり、一層デッサンに身を入れたものだ。
たしか3年の時だったと思う。静岡で部展を開いた。このことは私たちにとっては大きなイベントであった。私は50号のキャンバスを横並びに2枚継ぎ足して「支配の関係」という作品を発表した。この作品は、乾ききった地面の中に半身埋まりながら、無数の鳥が羽ばたくのを足に紐を付け束ねている巨人を、まさに支配しているかのように半分勝ち誇ったように、女神が薄笑いを浮かべ眺めているといった情景を描いたものだ。自らの自由を獲得したいという願望と周囲を思い通りに支配したいという相反する願望の表出なのだが、私の作品の中では一番大きな作品である。
件の「囲む会」で、師はその作品のエピソードを話された。作品自体の内容はともかく、油絵で50号をつなげて1作品にする発想は珍しいと。赤面したが、もう30年近くも前のことである。それを覚えていて下さったことに驚いたし、同時にありがたいことだと思った。
また、その展覧会場で同じ日に別の高等学校がやはり部展を開いていた。写実的でうまい絵が並んでいた。そのうまさに目を奪われている私たちに、師は声をかけた。「どれもみんな同じじゃないか。お前たちの作品はひとつも同じものがない。その方がいいに決まってるじゃないか。」と。その言葉は私たち一人一人を勇気づけた。その意味するメッセージは私の中で今も強く光を放っている。
そうだ。こうしてあなたの後を追い続けて美術教師をしている。あなたに教えていただいたことは本当にたくさんある。陳腐な言い方だが、断言できる。あなたとの出会いがなかったら今の私はいないと。なかなか追いつくことは難しいが、惜しみなく教えること、いつも理想を語ること、そして自分自身が追求し続ける姿をずっと見倣って行きたいと思っている。