あけましておめでとうございます
私はあの大災害の当事者ではありませんでした。にも関わらず、私の中でさえも変化は起こりました。というより、誰一人免れることなどできなかったのではないでしょうか。
職員室にいて、長く続いた揺れの直後、iphoneで得た目を疑うような速報以来、ネットやTV報道をはじめとして、身の回りに飛び交うありとあらゆる情報が深い悲しみや不安、恐怖をもたらしました。そして後戻りの利かない無情と喪失感。ついで身内や知人への尽きせぬ心配が俄にわき起こりました。隣席の同僚の親類縁者を皮切りに、見知らぬ誰かの身に起きたかもしれないさまざまな出来事やそうした人たちの思いを想像することで、鬱とした心持ちが支配していきました。時を経ても、ずっと澱のように、心の底に沈殿しているのであって、時折何かの拍子に浮かび上がっては、静かに漂い、あるいは激しく渦巻き、緩やかに旋回しながら、また底に沈んでいく、その繰り返しのように思えてなりませんでした。
凄まじい光景が、報道のフィルターを通して希釈されているにも関わらず、また事実のごく一部を切り取った部分に過ぎないと承知していても、私の心を悲しみで満たし、容赦なく圧迫しました。これは本当に現実なのだろうか。こんな事が起こっていいのだろうか。今回は免れたけれども、これから先、別のどこか、または自分のいるこの場所で再び繰り返されるのではなかろうか。
けれどもそれから起こった変化は、阪神大震災の後に似て、いやそれを遙かに凌ぐ規模とスピードでめまぐるしく展開したように思います。
勇気を持って事に当たる。できるかできないかではなく、それぞれの立場でやるべき事をやる。
そうして行動を起こした人々が、私の中の弱気やあきらめや無力感を次々と打ち砕いていきました。
「大丈夫、何とかなる」
この言葉は、4月に転任した学校で、受け持つことになった部員の一人がよく使う口癖だったのですが、いつの間にか私が一番頻繁に発していることに気づきました。小さい意味においては、何ら確信も根拠もない無責任な物言いにも感じられるのだけれど、大きな意味においてはいつも正しいような気がして、私を奮い立たせる呪文になっています。
ただ、この言葉に隠れた本当のところは、「何とかなる」(他力)ではなく、「何とかする」(自力)です。私が、あなたが、事に当たり、状況を打開するのだと強く思うのだという裏の意味を感じながら発しているように思います。
新しい年がはじまりました。大きな悲しみは消えることはありませんが、小さな希望を胸に一人一人が前進することで、きっと何とかなるんじゃないでしょうか。
昨年、いろいろな方と出会いました。ちょっと足を運んだだけで思わぬ人と繋がることもありました。そしてほんのちょっとの勇気でお話しすることができた方もいます。そう、ほんのちょっとというのがおもしろいところですね。今年はどんな出会いがあるでしょうか。
大きな変化や些細な変化。新しい発見や出会い。もちろんこれまでお会いしたすべての皆さん、今年もどうぞよろしくお願いします。