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色彩感情という言葉は聞き慣れないかもしれません。

例えば、ある色から受ける感じとして、
「暖かい-冷たい」や「硬い-柔らかい」、「重い-軽い」といった印象評価を行った場合、その度合いが各人によって判断され、色と感情とがどのような関係にあるかを調べることができます。その調査対象を広げ、たくさんの人に行えば、ある色の与える感情的傾向が統計的に見いだされるだろうと思われます。こういった、色の持つ、というか色が与える感じを色彩感情と呼ぶことにしましょう。

そして、その色彩感情にはことばの因子分析とくっついて、三つの基本次元があると考えられています。
色の感情的評価の手法としてSD法という調査方法があります。SD法とは、かつてことばの感情的意味について三つの因子を抽出したオスグッドの手法ですが、それにより、ことばの感情的意味の因子はそれぞれ評価性、潜在性、活動性と命名されました。この三因子はヴントがかつて感情の基本次元とした快-不快、緊張-弛緩、興奮-沈静の三次元とかなり似ているので、ことばについても3因子を軸にした感情的意味空間というのが設定されました。色彩感情を捉えるために、色の感情的意味について調べると、ことばと同様、三つの因子が抽出されやすく、同じように感情的意味空間に色をプロットすることができるというわけです。

ところで、こうした色の感情=色彩感情では、その基本次元として、強い・硬い・重いといった潜在性、暖かい・動的なといった活動性がかなり安定的に出てくるといいます。どういうことかというと、これらの感情と色との関係を訊ねた場合の応答に、個人差、地域差があまり見られないということを示しています。

このことは「アフォーダンス」から説明すると納得がいくと聞き(色彩指導者養成講座で)、はじめて「アフォーダンス」ということばを知りました。

そこで、たまたま本屋さんで『アフォーダンス入門』(佐々木正人著 講談社学術文庫)を見つけたので、読んでみました。

アフォーダンスとは、生態心理学のまったく新しい考え方(アイデア)です。生物と環境の関係への新しいアプローチといってもいいでしょう。大まかにいえば、生命がある意図をもって成長・発達、(あるいは進化といってもいいでしょうか)しているのではなく、絶えず、環境にアフォード(特性として与えられる)されて、変化し続ける、その結果や過程が見えているに過ぎないということです。従って、虫や動物のあらゆる行動や形態の変化について、何のためにその行動をとるのかと意図や目的を探っても意味をなさないというのです。

生き物の周りに、環境があり、そのありとあらゆる環境が私たちを含む生き物に単に存在するだけでありながらその特性を与え、生き物の行為を変化させ続けているというのです。

知覚と行動については、5感がバラバラに働き、その情報を脳が統合し、ある行動を指令するという系統がこれまでのとらえ方でしたが、アフォーダンスでは、そうは捉えません。

たとえば、視覚は、静止していても、動いていても、光学的変化として、空間をつくる物体の肌理(キメ)を捉えています。それにより、環境中の物体との間合いをとっているのです。肌理を捉える働きにより、距離を測ったり、壁との衝突を避けたり、熱いもの、傷をつけるものから遠ざかったりします。逆に柔らかく、暖かく、心地いいものには接近を許します。このとき、知覚システムとして同時に空気の振動や匂い、体温との温度差、踏んだときの硬さ、触れたときの柔らかさを捉えるなどしながら、生き物は環境に対して多様なアプローチの仕方で絶えず動き続けています。物体の変化が伴えば、さらにそうした環境の変化にアフォードされて、さらなる行動の変化が起こります。こうした環境への対応が私たち生物の行動を形作っているというわけです。

さて、そのように考えていくと、環境の光学的なアフォーダンスは、色彩感情に影響していきます。例えば「炎」は朱を中心とした階調の変化があり、揺らぐ特性を持ち、バチバチ・メラメラ、ゴーっという音と共に、灼熱の温度と物を焦がす臭気を伴います。炎が直接触れることを許さない危険な存在であることは誰でも知っています。対して、一面の氷は青く、海水も、川の水も、大抵体温に比べて低い温度であることは承知しています。こうして、人(動物)は色も環境の肌理における一つの状態として捉えることになったと考えられるのでしょう。その結果、色そのものに傾向を投影し、暖色、寒色などの色分けの判断や評価を可能にしているのかもしれません。

『アフォーダンス入門』では物事を白か黒かと分けて考えることをしていません。そればかりか、何かを予測しあらかじめ意図を持って観察するといった手法を論破しています。ただ、対象をありのままに観察します。したがって、数値の書き換えというデータ改ざんもなければ、捏造もありません。愚直とも思えるその観察姿勢は、「種の起源」で知られたダーウィンのやり方そのものです。本に登場するミミズの観察は、28歳の若さで見つけた「土壌の形成について」の論文発表から、死ぬ前年に発表された「ミミズの行為によって肥沃な土壌がつくられること、そしてミミズの習性の観察」までのダーウィンの44年間にわたる地道な観察を紹介したものです。

人は自分が直接しなくても、誰かの行動を規範にしたり、他人の到達点を利用して論を展開することができます。真似ること、咀嚼すること、それらをかき回して新たなアイデアを創造することもできます。「学問」そのものも変化することの一過程にあるといってもいいかもしれませんね。

話はがらりと変わりますが、もうすぐ北京オリンピックが閉幕しますね。興奮と落胆、感動と同情…様々な感情が、TV画面と対面する中、家に居ながらにして、わき起こりました。NHKの中継を見ることが多かったのですが、そのたびに、「♪一番きれいな色って何だろう…♪」という歌い出しのミスチルの「GIFT」が気になっておりました。


色のスペシャリストを目指して(というのは口幅ったいのですが…)勉強を続けているつもりですが、「一番きれいな色」などという「色」は何とも難しいテーマだと、それを考える度に頭を抱えてしまうのです。

環境のアフォーダンスからして、人間がもっともきれいだと思う色はどんな色なのでしょうか?

色彩感情の基本次元として、いわゆるSD法による調査でも、もっとも意見が割れるのが、「評価性」という次元です。誰にとっても美しいという色はなかなか定まらないものです。私個人にしてもそうです。「好き・嫌い」を問われても、質問に答える度に違いますし、これ、と1つ答えられるようなものではありません。

「白か黒をつけろ」という難題を突きつけられ…ても、迷ってしまいます。…白と黒のその間には無限の色が広がっている…。(「GIFT」に出てくる歌詞を引用しました)

それゆえ何らかの理論を裏付けにしたくなるものですし、今ある環境の中から見つけ出そうとするのかもしれません。目の前の色(配色)の魅力を分析して、そこから法則を抽出しようとする試み…。人間は誰かの試みを環境(狭義)とすることができます。無からの創造ではなく、絶えず変化する行為の中から創造される新たな変化…う~ん、深い。深みにはまっておぼれてしまいそうです。

ただ、深みにはまったとしても、悩みながら、あるいは模索を楽しみながらその時々の答えを求めていきたいと思っています。


この夏は色々と勉強できて本当に楽しく過ごせました。明日から生徒が登校します。いきなり忙しくなるんでしょうね。

頑張ります!!
by my-colorM | 2008-08-24 16:32 | 色の話
美術部員を5人連れて、美術部向け漫画作画ワークショップなるものに参加してきました。

現役の漫画家先生とアシスタントをされている方が館内案内と作画指導をしてくださいました。

漫画イラストの部誌を2~3ヶ月に一度出すくらいに漫画に傾倒する部員が多い割に、こうしたチャンスに興味を示さない生徒も多く、参加者は全体の1/4にとどまりました。

それにしても、お話によると30万冊の漫画を所蔵し、常時5万冊が自由に閲覧できるように書架に陳列されていますが、壮年から小学生くらいまでの入場者が思い思いのスタイルで読みふけっている様も興味深いものがありました。建物よこの芝生広場で寝転んで読んでいる姿はなんとものんびりした様子です。

この「京都国際マンガミュージアム」は廃校になった旧・龍池小学校施設を改装・増築して作られています。もともとあった地下室に温度・湿度の保たれたガラス張りの保存スペースが設けられ、寄贈された物も含め、貴重な資料としてたくさんのマンガが保管されています。旧小学校のレトロな建物は、京都の町衆の手による豪奢な雰囲気を今に伝える施設なのですが、大人も子どもも集い、活況を見せていました。

さて、生徒たちが指導を受けたのは、「漫画家のアシスタントをしてみよう」という設定で、主人公の黒髪の黒ベタ(天使の輪っか有り)、吹き出しづくり、走っている人の動きを示す線描、注目を集める集中線の4つです。

あらかじめ、7割近く完成した漫画原稿に、上記4つの仕事を加筆していくというので、漫画家の先生が模範を示して下さり、用具の使い方も直接指南いただいての作業となりました。

いつもはぺちゃくちゃと静まることのない子どもたちですが、今日はどの生徒も真剣でした。外国の方の参加があるそうですが、お話では、本校生徒皆、とても真面目で誠実な描画をしたとか。日本人の特徴なんだそうです。例えば、筆ペンによる黒ベタでは、大抵日本人ははみ出すのを嫌うそうです。外国の方は画面をくちゃくちゃにする(曰く、はみ出したら髪が長いことにしてしまう)人がたくさんいるとおっしゃっていました。マンガミュージアムを訪れる外国人が結構居るそうですが、そういえば一階の書架にはたくさんといえるかどうかは分かりませんが、外国のマンガも並んでいましたし、その棚を熱心に見入る外国人の姿もありました。

また、これは意外なことだったのですが、台詞につける吹き出しについてもおもしろい文化比較ができるそうです。日本人は感情表現としての吹き出しの形を暗黙の了解のうちに理解しているということです。強い驚き、心の中の驚き、ちょっとした驚きなどは、吹き出しの形でそのニュアンスの違いを感じ取って読み進めるものだと思っていました。ところが外国人にはなかなかその形の意味が理解されないのだとおっしゃっていました。どうしてなんでしょうね。私たちはコマ割の読み進め方に戸惑うこともありませんが、案外、当たり前なわけではないそうです。

さて、道具の中には、目新しい物がありました。それは水色シャープペンです。墨入れ前の下描きや、アシスタントへの指示メモなどに使われるそうです。なるほどファックス原紙は水色の升目があります。最近カラーシャー芯を見かけたことがあり、何に使うのかと疑問に思いましたが、これは応用が利くグッズだと気づかされました。

その他の用具として、インク瓶とGペン、ホワイト、コインの貼り付けてあった定規がありました。Gペンは使ったことがなかった子どもたち。慣れない書き味に少し戸惑ったようです。インクは楕円の穴にかからないようにつけること、水性の黒インクを使うので、ペン先に手脂をつけてはいけないこと、使い終わったらインクを拭き取っておくなど、きちっと指導していただきました。参考になります。定規に1円玉が3個セロテープで貼ってあったのですが、これはインクこすれによる泣きを防ぐためで、フラットな定規を浮かすための工夫でした。エッジの浮いた定規ならその必要はないのですが、たまたまネットで発注した定規が意に反してフラットだったので、加えた工夫だそうです。こういう問題解決法が大好きです。

指導してくださったのは、精華大学の漫画学科を卒業された方でした。漫画家志望は中学生ぐらいからだったり、本格的に書き始めたのは大学に入ってからだったり。本校でも毎年何人かが漫画家になりたいと希望を語ってくれます。多くのアシスタントを従えて、締め切りに間に合うように日々苦労されている様子がうかがえました。地味で気の遠くなるような制作です。

そういえば、7月に部誌が完成する予定でしたが、締め切りに間に合わない部員のために、印刷原稿が届いていません。共同制作のシルクスクリーンTシャツづくり、個人制作のイラストボードもどんどん迫ってくるだろうし、ましてや各学年の文化祭展示担当として引っ張りだこ(のはず)で忙しくなるだろうと思われるのですが、…う~ん、君たち、緩慢ですよ。

夏休み最後の1日。有意義が半日が送れました。
by my-colorM | 2008-08-22 19:20 | アート
『子どもが育つ条件-家族心理学から考える』(柏木惠子著岩波新書)を読みました。



なるほど、うんうん。
そうだったのか!

-うちも知らず知らず「少子良育戦略」に走っていたんだな。

多子多産の昔に比べ、現代は子どもは「授かる」から「つくる」に変わった。子どもを「つくる」か「つくらない」かの選択の余地があるというのだ。妊娠-出産-子育ての行為は、自分と子ども・育児との間に自己資源の分配をめぐり葛藤が生じやすい。女性の社会進出により、社会における自己実現の可能性が高まりを見せている現代、成長・発達主体であってよい女性が、「母」としてその座から引きずり下ろされるのはとても悔しいことなのである。

とはいえ、子をもうけ、育てることは、夫婦にとって当然の欲求であり、「つくる」選択をすることになる。「親である」夫が不在のまま、「親をする」母として子育ても家事も完全に任されたなら、女性の自己資源は自分には配分されず、子に集中していくことになる。ところで、専業主婦となって子育てを任された場合、仕事をしながらの子育て以上に社会から取り残されたと感じる焦燥感や、将来を見越して、このままでいいのだろうかという不安へと直結していく。日本の子育てでよく問題になる「育児不安」はこうした背景から起きているといえる。

一方、生まれた子が死ぬ事態は昔に比べて大幅に減っている。過去の多産多死の実相は、本書を読んでつかんでいただくこととして、そのため、現代の傾向として「少子良育」の発想が生じている。一人の子どもにたっぷりお金も時間もかけて、競い合うように「先回り教育」が進められるというのだ。こうした中で不幸な親子関係が築かれることが少なくない。その事例もいくつか紹介されていた。


…このように子育てにまつわる様々な考察がわかりやすく書かれている。また、昨今の少子化の中身が語られ、家族の危機的な状況に対し、「親をする」、「子育ち」といった発想法で育児そのものを捉え直すアイデアに共感を覚える。

本書は「家族心理学」という耳新しい心理学と発達心理学の研究成果をもとに、子どもの育ちや、それを取り巻く親や家族のありようを考えた本である。これまでの日本人の結婚観、育児にまつわる社会の常識や既存の価値観について、歴史的な成立過程や国際比較などをもとに、その問題点を明らかにしている。また、ともすると閉塞感や焦り、不安を抱かざるを得ない現代の家庭生活や子育てについて、「親も子も成長、発達できる社会づくりへ」という発想の転換を求めつつ、明るい展望をもたらす指標となる提案が展開されている。

とりあえず私自身の経験や実感が驚くほど当てはまる。あれもこれもドンピシャである。
私の前の世代の結婚観・子育て観と、私の世代の結婚観・子育て観とは大きな隔たりがあるし、次の世代のそれもきっと変化していくだろう。現状を憂い嘆くばかりでなく、未来に展望をもって語られているところが本書の魅力である。

おかげで、私の場合、大方「子育ては楽しい」ものだった。それでも振り返れば、新生児というのはすべてに予測不可能で、特に月齢3~4ヶ月ほどは、ふさぎ込むこともあるほど憔悴しきった時期もある。それは、仕事で帰宅の遅い夫への不満が嵩じたものだった。しかし、育休を切り上げ、半年で職場に復帰してからは、バタバタ忙しくて目の回るような毎日ではあったが、育児不安は解消し、落ち着いて子どもと向き合えるようになったと思う。

子どもは可愛く、仕事も子育てもどちらも気分転換になってバランスがとれた。その影に夫の育児・家事貢献度の高まりは大きい。本書では少数派とされる、子育てのための転職をも敢行してくれた夫の存在が何より貴重であった。

保育園の存在もありがたかった。乳幼児の頃は小規模の家庭的な保育園だったが、4歳で家を購入して引っ越してからは、幼稚園も併設された大人数の保育施設となった。たくさんの園児の中で、さまざまな遊びを経験させてもらえた。一つのことに夢中になったら、とことんのめり込む気質の息子を、園の先生方は本当に辛抱強く見守って下さったものだ。あるときなどは、小さな積み木(ドミノのようなもの)を直径1m近い円筒状に積み上げるのに集中してしまったのだが、自分の身長を超える高さにまで積み上げられたといって写真に収まっていたこともある。こんなダイナミックな活動は到底家でできるようなものではない。しかも、卒園時には園長先生がそんな息子の頭をなでながら「うちの園は、こういう子どもに育ってほしいと思って保育をしているんですよ。」と私に直々に話して下さったときには、本当に感謝の念がこみ上げた。

子育ては「よって、たかって、たくさんで」という理念、自分の教育方針の押しつけで先回りせずに「子育ちを見守る」こと、そして、親が自分自身の成長・発達を実感しながら活き活きと生きることとは、まさに私自身が、夫の家事・子育て参画を背景に、自ら実践してきたことだ。

そのことが、本書には書かれている。

息子はまだ自立の緒に就いたばかりである。生活経験という点では、必ずしも満足のいく段階ではない。経済観念と食生活、生活時間の安定など、まだまだ課題があるだろう。だが、人づきあいや目標実現力、美学芸術学的嗜好などでは、私も舌を巻くところがある。乳幼児期には正直感じていた、「私のもちもの」でも「分身」でもなく、今は自立した「タカラ」的存在という感じだ。「所有」ではなく、「見守る」という性格の。

経済的自立はまだ先になるだろうが、その基盤となる進路選択の時期がやってきている。余計な口出しはしないと決めているが、ついつい心配になってしまうのが「親心」なのである。
色彩指導者養成講座の後、読み残しを解消した分と帰省中に読んだ本を振り返っておこうと思います。

まずは…。

衝撃の一冊。そう評するしかない。この本の内容が本当だとすると…と、かなり不安を煽られる。
『脳内汚染』(岡田尊司著)。2005年に単行本が出たとき、印象的なタイトルが目に留まったがカバーがグロテスクだったので、手に取ることはなく、そのときはスルーした。今回文庫本の背を追っているうちにふと引きつけられた。

その前日、帰省で出迎えてくれた義姉と、車の中で話をしたところだった。
「…アスペルガー症の人に対してする接し方というのがあるんだけど、その接し方で親御さんの面接をしたら、やっと信頼を得ることができたの。あれが気になる、これが気になるって興奮して言ってたのが、最後には娘をよろしくお願いしますって。…」義姉は長年、発達遅延園児を預かる公立保育園の保育士をしてきた。昨年から職種が変わり、保護者対応や若い保育士を育てる立場になったという。その日も発達遅延園児の入所保護者面接があったが、難しい対応を要求される場面ではいつも自分が出て行かなければならないと漏らした。その話に対して「そういった症状、最近よく聞くようになりましたね。中学校でも増えていると感じます。昔とちがって認知度が上がったせいですかね。」と訊ねると「いやぁ、名前が知られるようになっただけとはいえない気がする。」と曇りがちな声色が返ってきた…。

著者は医療少年院に勤務しする精神科医である。あくまでも仮説であるとしつつも、凶悪化する少年犯罪の背景を、人類がこれまで経験したことのない高度情報化社会の、脳にもたらす影響にあるとし、メディア依存が少年犯罪を引き起こしている可能性が高いと断じている。少年事件を機に実施された寝屋川市の教員によるアンケート調査の統計資料分析が論拠だ。また氏はADHDやアスペルガーとの関連についても言及している。

主な論点を挙げる。
まず、統計上、ゲーム中毒・ネット中毒になりやすさについては、就学前ないしは小学校低学年で家庭用ゲーム機に接した場合に高い傾向を示すという。また、早期にゲームに接しやすいのは、意外だが、素直で明るく活発な子どもたちだそうだ。ここでいう中毒とは、毎日4時間以上ゲームやネット、メールに費やし、引きこもり等、学業や生活態度に何らかの支障をきたしているレベルを差す。家族に注意されたり、止められるとイライラを爆発させ、暴力をふるうなどの問題を抱えた深刻なケースが多い。
ゲームにおいて特に問題視しているのはその中毒性である。親が子どもの喜ぶ顔を見たくて、あるいは面倒な子育て(語弊はあるが、子どもというのは大人がつきあいきれないほど反復が好きで要求してくるものだ)を代替するため、安易にビデオやゲームを与えてしまいがちだ。たとえ初期の段階で、客観的にそれが無害な内容であったとしてもそれが落とし穴だ。はじめる時期が早ければ早いほど、後年になって没頭するケースが多く、高校生など長じてくると、その内容は親がコントロールできない状態に陥る。より強い刺激を求め過激な内容にどんどんエスカレートしていく。そしていわゆるゲーム依存、ゲーム中毒へと進んでいくのだ。また、仮にゲーマーにならなかったとしても、ゲームを卒業すると、興味が別メディアであるネットへと移行しやすく、結局ネットに没入し中毒へと進むケースが多いという。
○○中毒、△△依存ともなれば、他の、薬物やアルコールなどの物質依存同様、社会生活に何らかの問題を抱え込むことになる。そうなると素直で明るく活発な子どものイメージからはほど遠くなる。自己中心的な言動が目立ち、身の回りの現実に対して無気力、無関心で、少しでも注意する人を敵と見なし、攻撃する傾向が出てくる。昼夜逆転による遅刻、居眠り、欠席…。また場違いな発言を繰り返してしまうなどのトラブルがもとで、社会生活を嫌い、自分の居場所であるゲームやネットの世界に引きこもる…。
著者はさらに長時間ゲームに没頭することの弊害として、脳の前頭前野の発達不良を挙げている。前頭前野は人が人らしくあるための働きを担っている、いくつかの部分から成り立っている。記憶・創造性・自制心・意志決定・コミュニケーション…。あらゆる人の行動をコントロールする働きが件の前頭前野に任されているのだ。(その発達は、10歳前後までにピークがあるらしい)ところが、ゲームをしている間は視覚と反射運動を司る部分は活発に活動しているが、前頭前野にはほとんど活動が見られないと指摘する。
ADHDやアスペルガーとの関連については、その症状の子どもが、ゲームに熱中しやすいことを挙げている。また、後年、人との濃密な係わりの中で前頭前野が発達し、症状がなくなるか軽症化する期待があるのだが、ゲームに長時間熱中するあまり、その機会を逃している可能性が高いとも推測している。

だが、最も著者が問題にしているのは、一般的に、人間らしさの発達著しい年代に対する、ゲーム・ネット・メールあるいはテレビ・ビデオの存在そのものである。彼の問題提起は、それらに注ぐ時間が、家庭生活の中で、あるいは学校生活の中で、本来の人間活動にじっくりと費やされたなら、どれほどの効果をもたらすだろうかという点にある。若者のコミュニケーション力の低下、ニート、不登校、ひきこもりといった問題の要因がメディアの発達にあると断罪しているのである。

そして、もう一つ忘れてはならない提起は、垂れ流される悪意のある映像メディアの問題である。若年の柔らかな脳に刻みつけられる残酷シーンの悪影響。TVでも大人が目を覆う映像がしばしば放映されることがある。また大人が放置した俗悪ビデオを子どもが見てしまうケースも考えられる。ましてやネットには様々ないかがわしい専門サイトが存在する。家庭にいながらにして親の知らないところで本人でさえ思わぬうちに易々と想定した状況を超えられてしまうのである。こうしたことから受ける心的外傷が、長じて首をもたげてくることがある。どこでどうその子の人生に狂いをもたらすか予測不能であるというのが著者の大いなる心配だとしている。凶悪犯罪はメディアの発達曲線と同期して増えている。著者は本の中で繰り返しこのことを論じ続けるのだ。



はてさて、かれこれ40年以上もメディアに触れている私などはどうなんだろう。映像メディアに関してはどっぷり浸かった世代である。ここで自身のことを振り返ってみたい。

私は、4歳のときに東京オリンピックを迎えた。そのときに、白黒テレビではあったが我が家においてメディアの洗礼を受けていることになる。当時テレビは家族で視聴することが多く、ちゃぶ台があり、お父さんが仕事から帰ってくると点けるとか、兄妹で視聴するにはチャンネル権というのが存在した。それがもとで喧嘩をし、何度泣かされてきたかは言うに及ばない。
そんな私には、家族にとって空白の独占時間があった。5歳の時、上の兄が小学校、下の兄が保育園年長。なぜか私だけ家に居るという1年があった。母は保険の外交員として働いていて、当時、母が集金業務に出掛けると一人で留守番をしなければならなかった。一人で過ごす間、心細さをなぐさめてくれたのがテレビだった。テレビに子守りをしてもらっていたわけである。長じても、「テレビっ子」とは私のことをいうのだと自認せざるを得ない状況が私にはあった。どの年代でも学校から帰るとスイッチon。見ると見ないとに関わらず、とにかく電源を入れるのが習慣だった。思い起こせば、我が家が新築されたとき、6年生だったが、テレビを置く場所を決めたのは家族の中で最年少の私だったのである。それからテレビは不動の位置にあって、もちろん一番たくさん視聴したのは一番暇な私なのである。主なチャンネルはNHKかNHK教育。仮に他のチャンネルを視聴していても家人が帰ると必ずNHKに切り替えられた。今でもNHKは私の中で良質な番組を作り続けているという絶大な信頼がある。色んな不祥事が続いても揺るがないのには40年以上の長いつきあいがあるからなのだ。

ま、それはさておき、「中毒」とか「前頭前野の未発達」についてはどうなんだろう。

救いと思えるのは、いくら遅くまでテレビを見たくても、テレビには深夜放送というのが無かったのである。記憶が正しければだが、私が10代の頃、終日放送していたのは大晦日からお正月にかけての数日だけだったのではなかろうか。
どぎつい映像にしても、刺激がきついと思われたのは『イレブンPM』程度。プロレス中継はさすがにハードで、流血シーンもあったが、幸いにしてそういう類は好まず、熱狂してテレビの前で技を掛け合う兄たちに辟易していた。ただし、積極的に視聴していた『仮面ライダー』については、それを真似て男の子にライダーキックを浴びせて恐れられていたのは事実である。とはいえ『サインはV』などには触発されて、友だちとバレーボールで鍛え合い、日が落ちるまで外で遊んだ貴重な記憶もある。
放送の送り手の気概に支えられてか、私はテレビで様々な疑似体験もしたし、たくさん感動をもらってきた。勉強時間は確かに削られたものの、「アニメ」から漫画本に移行して、絵を描くことにも、文学に触れることにも発展した。幸い、部活も生徒会も授業や試験もどれひとつ手を抜くようなことは無かったから、少なくとも中学生の間は「勉強、勉強!」と親から急き立てられることは無かった。何より学校の行事が大好きで下校時間まであれやこれやと残って過ごしていた。それが今の職業へとつながっているのに違いない。もとより高校・大学ともなるとすでに親の口出す場面はない。どう過ごしたかはこの際省略するが…。

とはいえ、メディア漬けの影響が一切なかったかというと、そうも言い切れない。ちょっと気がかりな心当たりがあるので紹介しようと思う。

それは高校三年生の夏休みのこと。美大受験を視野に入れて、名古屋のとある予備校へ実技レッスンのある夏期講習に約一週間だっただろうか、宿泊して受講した。このとき、宿舎は真新しい、その予備校の寮で、様々な志望を持つ受験生が泊まっていた。受講初日のことである。食堂脇には書棚があり、いわゆる赤本や見たこともない受験用の問題集がズラリと並んでいた。いくつか手に取ってみたものの、自分も受験生のはずだったが、どの問題も目に入っては来なかった。まるで別世界にいるような気がしたものだ。それで、食堂で一人、何気なくテレビをつけてみた。すると、すぐさま寮母さんがとんできた。「テレビ消しなさい!何しにきてんの!ほかの受験生はみんな一生懸命頑張っているんだよ!テレビなんか見ているのはあんただけだよ。(受験生という)自覚あんの?」と、いきなりまくし立てられた。呆気にとられた。「何もそこまで言うことないじゃん!ここにあったからつけてみただけなのに。」と口をついて出そうな言葉をなんとかグッと飲み込んだ私は、その場では「ごめんなさい。」と言って頭を下げはしたものの、その後、寮母さんが見えなくなると、ほおを膨らませ、プイっと唇をとがらせて自室に走り帰った。部屋に戻っても興奮が治まらず、一人布団に顔を埋めて泣き続けた。無性に腹が立った。他人に注意されることなど、そのときまで、ほとんどなかったのだ。悔しさが何度も何度もこみ上げてきた。それからである。自室に小さなキッチンがあったので、自炊か外食で食事を摂ることに決め、二度とその食堂に足を向けることはなかったのである。
必要以上の興奮と徹底した他者拒絶。考えてみれば、それこそがテレビ中毒の症状だったのかもしれない。今にして思えば本書の内容は他人事ではすまされない。このエピソードはある意味で一つの好事例といえはしまいか。たかが一少女の反抗心、されど反抗心。この程度といってしまえばそれまでだが。

40年以上映像メディアにさらされている私たち。しかし何千年も続く人類史の中でたかだか40年である。確かに未知の領域であることは否定できない。だから著者が指摘している様々な危惧が、妥当だといっても言い過ぎではない気もしてくる。しかしながら、問題が重すぎるし対処のしようもなく、さらにこうしてネット活用をし続けている私だけに、本書の内容を全肯定はし難い。が、かといって全否定もしにくいのである。現実的には、いきなり映像メディアを全廃することは全くもって不可能なことだ。ここまで発展し、優れた技術で、個人に対して多くの情報をもたらすメディアを今更放棄するなどという所業は私にはできない。それは、何人にもいえることなのではないか。

私なりの結論を言えば、本書をゲームやメディア依存に対する警告の書として片隅に置いておくこととする。未知の領域に踏み込んでいるからといって、いたずらに不安に感じることだけは止めておきたい。目の前にいる子どもたちは必ずしも不健全な状態とは言い切れないし、もちろん十分とは思えないが、しかし、壊れてはいない。たとえ個々に悩みや生活の崩れがあったとしても、それがきっかけで起こされるアクションをサインとして受け止めていきたい。アプローチしていくチャンスはいくらでもある気がする。そうしながら、もう少し長いスパンで経過を見ていくしかないと思う。

それにつけても背筋がゾッとするような一冊、そんな本に出会ってしまったと言っておこう。

本は義姉に譲ることにした。「ヤバい本ですけど、昨日話していたことに関連がありそうなので差し上げます。読んでみて下さい。」と。

次の日、義姉は「なんだか怖そうな内容だねぇ…。」と、目次をさらっと見たといって、一言感想を聞かせてくれた。



皆さんもまだの方は一度読んでみて下さい。その内容を信じる、信じないは別にして。
特に子育て中の方、怖いですが、現代の若者世代に起きている様々な事象の、原因の一端を知る機会になるやもしれませんよ。

ゲーム、ネット、メール…はほどほどに。生の人間同士であぁでもない、こぅでもないと対話しながら前頭前野を鍛えましょう。一人で前頭前野を鍛えるなら、DS脳トレ!あれ、それってゲームじゃん?懲りないメディア依存症?ん?

葛藤が起こるなぁ、この本。
12日から一人で帰省しておりました。

我が家にいても、開会式以降、ほとんど五輪観戦でダラダラ過ごしていましたが、
実家に帰ってからはその状態に拍車がかかりました。

実家から目と鼻の先に本屋さんがありますので、これではいけないと5冊購入して読み切りました。

それにしても、あ~のんびりした。

新幹線乗換駅の名古屋で名古屋名物てんこ盛りの幕の内弁当をお土産にしました。
その名も「名古屋めし」。名古屋と言えば…と思いつく物が九品そろっていました。
名古屋ってやっぱり元気なところですね。

パパと久しぶりの夕食。お腹がパンパンになってしまいました。

さぁ~てと、明日は職場復帰に向け、すこしウォーミングアップ(はてさて、何をしましょうか…?)して過ごさないと。それこそ久しぶりの出勤です。ちゃんと行けるかな…。

その前に、ここのところ興味深い本を結構読みましたので、明日はじっくりその書評でも書こうかなぁ。

今日はちょっと疲れましたのでそろそろ休みます。
by my-colorM | 2008-08-16 23:20 | 日記
この夏受講した色彩指導者養成講座の認定試験結果が届きました。
結果は合格です。

これまでに受講した3つの認定講座の中では最も認定基準が明確な講座でした。また、採点されたテスト(答案用紙)と共に、提出したレポートや作品もすべて手元に返却される公正さや、試験から10日足らずで結果が郵送されるスピーディな点、さらに再試験日程も同月中に行われるという点などなど、いい意味で驚かされました。

9月下旬か10月の上旬に認定式が行われるそうです。どちらにしても平日開催であれば、本務に穴は空けられず、上京ままならない私ですが、ひとまず、ホッと致しました。

講座ではたくさんの先生方から示唆に富むご講義をいただきました。講義内容もさることながら話し方、プレゼンテーションの方法、提示物、教材など、参考にさせていただこうと思うことがたくさんありました。今後は勉強してきたことを自分なりの方法で実践に生かしていくつもりです。

さて、これから再試験に向かわれるという方もいらっしゃいます。暑い日々が続きますが、この機会を逃さずにかならず合格を勝ち取っていただきますよう、心より応援しております。
by my-colorM | 2008-08-11 19:10 | 日記
昨日は、終日お休みをいただきました。勝手な自主研修と出張でなんだかクタクタ。そろそろ劇場で映画を観て均衡を保たないと…。

ということもありましたが、気がつけば、水曜日。映画1本1000円のレディースデイだったんですよね。これは今日を逃すことはできない。Movixの「おさきにネット」で座席指定ができますので、まずは上映予定を調べます。

で、これっと思ったのが『奇跡のシンフォニー』。予告で気になった作品でした。今週で終了というのが決め手になりました。それと、せっかくだから『火垂るの墓』も観ちゃおう。2本立てで行こうということで決定!いそいそと支度をして出掛けました。

『奇跡のシンフォニー(August Rush)』 (2007アメリカ映画・劇場)★★★★☆

『チャーリーとチョコレート工場』で見たあの純真無垢な笑顔に再会?それが、天才音楽少年エヴァン(オーガスト・ラッシュ)となって天から舞い降りた…そんな感じだ。映画って、やってくれる。
日常のありとあらゆる音が彼にとっては交響楽として響いている。そんなオープニングシーンにいきなり心がさらわれてしまった。風にふかれて渦巻く麦畑と一体化するシーンだ。まだ、楽器という表現ツールを知らないエヴァンにインプットされ貯まっていく音楽の元素。「音楽はどこから来る?」「空からさ。ただ聴くだけでわかるんだ。」…。11年とちょっとの間、純粋に音が自分とまだ見ぬ両親とを繋いでいると信じ続ける少年の真心がピュアに伝わってくる。
この映画で扱っている音楽がノンジャンルである。クラシックだったり、ロックだったり、はたまたゴスペルだったりレゲエもソウルミュージックもっていうのがいい。だから音楽を愛するすべての人々に好感を持って受け入れられるのではないかな。そして楽器を弾けようが弾けまいが、楽譜が読めようが読めまいが、音楽が私たちの中に喜びをもたらすのだという「真実」が後押しをしてくれる。
一人の男にとって一夜の恋が11年の歳月を超えて人生の変更を決定し得るものなのかとか、教会に迷い込んだストリートチルドレンがその音楽的才能を認められたとして、かのジュリアーノ音楽院に入学し得るか、また在学6ヶ月という期間で11才の少年が野外コンサートで演奏するシンフォニーを作曲し得るか…などという当然起こる疑問や突っ込みはこの際ナンセンス!!そんなものは隅っこに追いやって観なければならない映画だ。
本作は純粋に音楽の素晴らしさを確認させてくれる名作といっていよいだろう。


火垂るの墓』(2008日本映画 劇場)★★★☆☆

小学生のときに原作を漫画で見て、涙した。こんなに悲しい物語があるのかと心に染みたものだ。大人になってアニメができた。節子の声にリアリティが加わり、また涙した。その実写版。これは観ずにはおけない。公開の日に観ようと思ったが叶わず、今回に至った。
上空から写された(設定の)最初の空襲の映像。CGだとは分かっていても、アニメにはないリアリティが感じられた。そして雨の中妹を背負ってたどり着いた焼け跡の家には母の姿は無かった。町会長に案内された、夥しい重傷者が寝かされている簡易病院、避難所の公民館だろうか。口々からうめき声が発せられ、死に瀕した匂いが充満していた。上半身を包帯で巻かれた母に名を呼ばれても受け入れることができず逃げ出す清太。母のものも含め、遺体を大きく掘った穴に投げ込み一斉に焼却する場面では、清太やその周りの役者たちの無表情の演技に肉親の虚無感がにじみ出ていた。親の庇護のもと豊かな生活を送っていた兄妹は、母親の言いつけ通り、遠縁の親戚に身を寄せるも、父の不在、母の死によって、人としての正当な扱いを受けられずにネグレクトされていく。貧しさゆえに崩壊するプライオリティ。おばさんは心底悪い人間では無いはずだが、そうせざるを得ない極限状態が形成されてしまったのであろう。また、人間味の豊かさを象徴していたはずの校長先生がご神体を焼いてしまった咎で自害に追いやられるという不条理。こうした凄惨なエピソードのパッチワークによってあの戦争のむごたらしさが十二分に込められた映画だ。
実写版ということで、省ききれなかった血のイメージ、傷の痛みに少し減点。原作にあった泥のぼた餅のシーンが石のご馳走によるおママゴトに換えられていたのとサクマドロップの缶底の飴かすを水で溶かして飲ませるシーンがカットされていたのが残念。期待の名場面だっただけに勝手ながら減点対象としました。役者はメインの4人が本当に上手く演じていましたね。その点はおすすめです。
京都に帰る3日、Miyabiさんとお会いすることができました。前日お里からお帰りになったとか。私の方は午後の予定という予定は特になかったので、期待していなかった再会が果たせるというので飛び上がるほどうれしかったのです。アレコレ支度を済ませ、14:00には待ち合わせられるかと考えておりました。

問題は重い荷物…。文字通り荷物なんですが、テキストと資料にいただいた本に持参した本も合わせると、随分の重さになります。京都からは着替えなどを段ボールで送ってもらったので、その段ボールを利用して送ろうと考えました。

前日にしっかり調べておけば何のこともなかったのですが、そこは息子のPC。なかなか自由になる物ではありません。当日の朝になって、息子がバタバタと出て行ったあと、ようやくクロネコを検索。すると、当日午前中の集荷申込みでは13:00~15:00の時間帯から受け付けるとのことでした。Miyabiさんは出先のご用をされているはずなのですぐには連絡がとれません。

早めに来てくれたら…と期待して申し込みました。あとからMiyabiさんにその旨を連絡。するとさきに別の用事をしてそこそこの時間までならお待ちいただけるとの願ってもないお返事が帰ってきました。集荷の問い合わせ先に電話を入れて早めに来て欲しいとお願いしておき、部屋の片付けをしながら待ちました。

チャイムが鳴ったのが13:55。これまた、明日の午前中も出掛ける用事があるからと早めに着くようにとお願いするホント勝手なお客です。

程なくMiyabiさんから用事を済ませたとの連絡が入りました。用事が終わってもクロネコちゃんが来なければまたもや再会が果たせないところでした。メールポチポチがまだるっこしくて即電話を入れました。この機を逃してはならない!の思いからです。

…そうして、ようやく再会することができました。池袋の東武百貨店4F「シェ松尾」です。スウィーツ満載のメニューに色めき立ちましたが、朝息子と残りの食材を使って重ための食事をとっていましたのでお昼が抜けています。この際にと、プレートが三重の塔になっているランチを注文いたしました。Miyabiさんは温かいキャラメルティ(と思いましたが…)をかけるアイスクリーム。注文した品が来ると、高い三段重ねのプレートタワーでお顔が見えなくなりました。(笑)

色彩指導者の講座の先輩ですから、ひとしきり今回の講座について報告したり、Miyabiさんが受けられた別の講座についてのお話などあっという間に2時間は過ぎていきました。

このままお別れするのも淋しくて、つい、次の講師養成講座15期の皆さんとの会合にお誘いしてしまいました。この先のことを考えるなら、東京会場の皆さんと直接会っておく方が互いに都合がいいのではないかと考えてのことです。すぐにご主人様と連絡を取って下さり、会への参加が実現しました。

15期の皆さんは、本当に歓迎してくださいました。すでに旧知の仲のように皆さんが打ち解けていて、12期の大阪組がなつかしく思い出されました。私たちの時は最終試験日にすべてが終わってから本当の意味の打ち上げで会合を持ったわけですが、今期の皆さんはなかなか意味深い集まりをされているなと感心しました。「全員認定合格を目指して」という決起集会のような会でしたので、終始熱気ムンムンでした。ちょっと顔を出して…どころか、静岡組が帰られてからも居座り続け、結局席を立ったのは新幹線の終電1本前に間に合うかどうかという時間でした。(^^;)

皆さんの勢い、本当にこちらも元気をもらった気がします。最終試験までひと月を切っていますが、これはもうとにかく練習あるのみ。是非頑張っていただきたいものです。
by my-colorM | 2008-08-06 11:04 | 日記
集中講座本日終了致しました。
様々なアプローチで色彩を学ぶことが出来ました。感謝!

さて、前回に引き続きまして…


〈5日目〉 今日はパッチリお目々を開けて!

午前中から前回居眠りでテストぼろぼろのO先生の講義。
聞き逃してはなるものかとしっかりお話に集中致しました。
色名はエピソードがたくさん出てきて面白い部分ですよね。

その後、環境と工業製品の色、流行色について学びました。
流行色のテーマは2月の東商の講座でお話し頂いた内容でしたが、
ありがたく拝聴致しました。

その後修了テスト。今日ばかりは冴えていました。

しか~し、その晩、息子と街に出てワインを浴びるほど飲んでしまいました。
東京入りしたその夜はグラスワインをいただいたのですが、今度はボトルに変更。

次の日のことを考えるべきでした。(反省)

〈6日目〉 体調悪~っ!

昨晩は家に帰り着いてバタンキュー。
朝目覚めると、布団も敷かずにごろ寝をしておりました。
頭も痛いし、なんだか喉もいがらっぽい…。風邪も引いてしまったみたい…。

今日は午前中は色彩調査の演習。実際にやってみるとよく分かります。
午後からは色票演習と色面構成。自分の職業を疑うような作品でしたが、
やっぱり調子が出てこなくて…(言い訳?)

そして最終テスト。色感テストも含み、80分で選択問題と論述問題に取り組みました。
選択はともかく論述はやっぱりむずかしいですね。
知識や理解があやふやなのがばれます。

全体が解散して、色彩教育研究会の幹事をされているA先生とお話しすることが出来ました。義務教育用のカリキュラム編成について少しばかり交流が出来たのは収穫でした。もうすぐそれをまとめた本が出来るとか。楽しみです。全造大阪大会にも来られるとか…。お会いできるといいなあ。

さて、お世話になった皆さんにお別れをいい、会場を後にして、それから講座で知り合ったKさんとEさんとお疲れさん会をしました。
講座中はなかなか他の方とお話しする機会がなかったのですが、2時間ほどお茶をしながらおしゃべりをしました。こういう出会いが何よりも楽しいですよね。

本ブログも紹介しましたが、いつかご訪問いただけることを願っております。

わぁ、明日は京都へ帰らなきゃ!お洗濯もしなくちゃいけません。
大変だぁ。

明日はAFTの15期の講座の方々ともお会いする予定です。楽しみ~♪
by my-colorm | 2008-08-02 21:20 | 日記