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昨日は入るまでのレポートで失礼致しました相国寺承天閣美術館の「若冲展」ですが、いよいよ今日は第一会場のレポートです。

宮内庁三の丸尚蔵間所有の「動植綵絵」三十幅。どういういきさつでそうなったのかは下調べで知っていた気になっていました。しかしながら、今回、相国寺創建六百年の記念行事と若冲作品の里帰りに遭遇できた幸運を享受できる一般市民の喜びにひたりきりで、そもそも彼をこの作品群制作へ駆り立てた思いはいったい何であったかということには、全くのところ思いが至っていませんでした。

しかし、第一会場で目の当たりにした鹿苑寺(金閣寺)障壁画と若冲、そして動植綵絵を相国寺に寄進するために送った寄進状でその思いを知るにいたり、今回の若冲展の鑑賞は私にとって忘れ得ぬものになりました。

さて、若冲には「奇才」のイメージがついて回っています。

昨年東京国立博物館で観た、プライスコレクション「若冲と江戸絵画展」で世間をあっと言わせた升目画などはその最たるものでしたし、江戸時代の画壇においてもまさにエキセントリックで異質な才能と謳われるのも頷けると思っていたのです。

しかし、彼が書いた寄進状は、一人の画人としての若冲が、自らや亡くなった自分の両親、また早逝した弟の冥福を担保するために描いたということ、また作品が未来永劫寺に残ることを望んでいたということを示していることを知り、彼の二つの側面に改めて気づかされたのです。

まずひとつ目は若冲の絵の原動力は単に絵が好きとかいうレベルではなく、描くことが「信仰」と結びついていたということです。そしてもう一つはまさに「人生は短し、芸術は永し」の精神を知っていたのだということです。

彼の絵にはどんな些細な部分をとっても気を抜き、手を抜いたところを見つけることは私にはできません。

思うに僧侶は本当に書をよくします。朱印帳にさらさらとしたためる墨の文字はその書かれる過程そのものが芸術かと思われるほど破綻がありません。彼らの文字はまさに修業のなせる技。その修業は仏に帰依し、自らをその境地に導くための不断の勤行でもあります。そのことを思うとき、若冲にとっても絵を描くことはまさに修業そのものではなかったかと。だから手を抜くことがなく、気の抜けた部分がないのではないかと考えられるのです。

そして、画家にとって描くという行為は描くのを止めたとき、つまり筆を置いたときに完結し、描かれた絵への執着は多くの場合、跡形もなく消え失せ、所有することの無意味さにつながるゆえに、作品自体がものとしての永遠性を確保することは難しいものです。しかし、すでに所有欲求の消え失せた(失せるであろう)作品群ではありますが、寺に寄進する=大切に保管され未来へと受け継がれる保証を手に入れられると考えたときに打ち込んで描ける安心感を感じ若冲は制作に至ったんじゃないかと思います。人間は必ず死にます。彼もそのことは重々知っていたはずです。たとえ自分はいずれ死んでも作品は生きた証として残るのだということを熟知していたのではないかと私は考えました。

だからひとつとして手を抜かなかったし、微に入り細に入り、克明に描ききったのではないでしょうか。

彼の作品の画面はどれをとっても濃密な印象があります。優れてバランスのとれた、装飾的で、そして何よりドラマティックな「決め」が利いています。その一端が鹿苑寺障壁画にも見て取れました。水墨で描かれた軸物の「鯉図」は鯉の体の濃淡表現によって水面の存在を表現し切っていました。直接水面を描かずに暗示させる手法がいかにもドラマティックで彼らしいです。

また、鶏や鶴の足やブドウの実などのひとつひとつの墨の筆致は修行僧の書そのもの。「定律」です。定律とはいえ判で押したような同じものはひとつもない。でありながらそこには一切の破綻がない。彼の水墨画には深い信仰心を感じざるを得ませんでした。

この鹿苑寺の障壁画。かの動植綵絵とほぼ同時期に描かれたとか。一方では極彩色とも思える燃えさかる色の饗宴。一方では水墨で目にも留まらぬ早さで描かれたであろう襖絵。十年という歳月に集約された彼の信仰と密着した作画にとにかく溜息ばかりです。

そんな思いに満たされながら第一会場を抜けました。

当日のメインイベント第二会場への会場入りは、まだまだ遠い道のりでした。時折第一会場は留まったまま前にも後ろにも全く身動きがとれない状態でえもいわれぬ不安にしばしば陥れられました。よくも集団パニックに至らないものと何度か感心させられました。しかしその都度この際じっくり観てやろうとかえって若冲に集中したもの事実です。(つづく
by my-colorM | 2007-05-28 22:50 | アート
ハイ。ようやく相国寺承天閣美術館「若冲展」に本日行って参りました!!

朝、二歩ぐらい出遅れて、会場時刻の10:00にはまだ電車の中におりました。ちょうど「ダ・ヴィンチ展」でも同じことをしていたような気がします。無反省な性格は自業自得へと自らをどんどん追いやります。

地下鉄烏丸今出川駅からはかなりスムーズに相国寺に向かったのですが、案の定、長~い列が始まっていました。

最後尾に陣取ったのは10:17分。早速、携帯で混雑状況をチェックすると「75分以上」の待ち時間とありました。アチャ~。昨日弐代目・青い日記帳の「若冲展」若冲展インターネット先行プレビューのようすを読ませて頂き覚悟したつもりでしたので、こんなことでへこたれるわけには行きません。

今日は好天に恵まれ、朝から日差しも強く、持参のお帽子が役に立ちました。松の緑が美しく、初夏の陽気が心地よかったのはつかの間。止まったり、歩いたりの不定期で不自由な動きの連続にうんざりしつつ、いかにも場当たり的な高彩度の緑色の仕切りフェンスに囲まれ、これでは松の緑も台無しと別なところで苛立ちを覚えてきました。

実は私には列をなして美術鑑賞に参加するときに、耐えられないと思うことがあります。それは周囲のおしゃべり。特に今日のは強烈でした。

列に入って40分ほどで券売所を通過しました。そこからは美術館脇を、館内でまだ並んで歩いている人がいるんだ!とガラス越しに中を確認しながら、グルリと列をなして囲む状況にありました。

ちょうど改めてその列に入ったあたりから女子学生らしい2人連れが後ろでひっきりなしに若冲の絵と人となりを評価すべく話し込んでいました。絵についての印象についてどう思うか、つっこんで話している様子なのですが、その内容はどれも追求不足で中途半端な内容です。なのに妙に断定的で、論拠、論点がずれていても平気で納得してしまっているようなのです。

「桃山時代によくでてくる絢爛豪華な感じだよね」「狩野なんちゃらとかの雰囲気だね」「絵を解釈すると、まずはなんといっても様式美だよね」「若冲って性格的にはダ・ヴィンチに似ているかもしれないね」「何のために描いているんだろうね、絵が好きだからというのはいえるだろうけど、う~ん理解不能なんだよね」「若冲の絵はどれも人間らしからぬ絵ってかんじがする」「でも山水画にはない魅力があるよね」「西洋画と比較しているからかな?リアルさはたしかにあるんだけど他の絵とはたしかに印象が違うよね」…。

何をいちいちとは思いますが、気になったので、彼女らの解読不能な言葉を羅列してみました。これを読んで皆さんは私がどんなじくじたる思いでいたか、お察し頂けるでしょうか。彼女らはとりもなおさず若冲ファンで、その魅力に惹かれてやってきているのは十分わかります。でもただただ絵の前に佇んで見て欲しい。そしてそのとき感じられた解釈は自分の中で温めて頂きたい。まとめないで欲しいのです。答えを急ぐ必要はありません。一言一言に疑問を感じながら若い人への余計なお世話的な気分が沸々と吹き出して来ました。

それにしてもあとどのくらい一緒に並んで歩くのかを考えると気が遠くなる思いさえしてきました。聞きたくもないのに耳に入ってくる、雑音としては最悪な部類で、頭痛を催してきたほどでした。できるだけ声が遠ざかるように列を少しずつ移動しながら進むことにしました。

内容が世間話ならまだいいんです。ほとんど実害はありませんから。でもくれぐれもこれから観る鑑賞対象に対する持論展開だけはこの際お止め下さい。できるなら行列でのおしゃべりはどうか慎んで頂きたく思います。

さて、そうこうしているうちに並びだしてから60分ほど過ぎました。すると、お年を召した方2人、係員に連れられて引き返しておられます。「…もうあきらめた」そんな言葉が聞こえてきました。ここまで来られて…そう考えてしばらく進むとその理由がわかるような気がしました。いよいよ館内に入場かという期待をもって曲がったその先にまだまだ列ができていたのです。

今日は日曜日。開場時間からすでに長蛇の列です。しかも夏日。美術館周りはテントが張ってあるとはいえ人いきれでムンムンします。おまけに情報が少ない。トイレも館内に入る寸前に一箇所あるのみ。係員はいますが、丁寧な案内であったかというといささか疑問です。お年寄りも大勢見かけますが、この混雑に体力・気力が尽き果てたといったところなのでしょう。お気の毒です。

そうこうしているうちに、ようやく館内入り口に到着しました。80分待ちでした。通路は空調が利き、どれだけホッとしたか。しかしそれもつかの間でした。第1会場に入る前もしばらく足止めされました。入場制限です。その後ようやく会場入りしましたがムッと暑く、むせ返るようでした。

そしていよいよ「鹿苑寺大書院障壁画」の第一会場へ!(つづく)
by my-colorM | 2007-05-27 19:22 | アート
待望?の「ダ・ヴィンチ展」レポートを記します。

観覧からすでに3週間を経て、思い出される事柄こそ本当につかんできた印象なのではないかと思います。(言い訳じみて、若干、居直り気味に聞こえますかね?)

そして、その事柄とは…。

今回はPart1として「天才はいかに育ったか」を考えてみようと思います。

展覧会を通して私自身が感じたレオナルド・ダ・ヴィンチ天才の実像とは「無学の自覚を根源とする知への渇望と、そこで得た自分流のやり方による自然観察と表現の総体」です。

私が今回の展覧会を観てきて最も注目したのは「受胎告知」もさることながら、「レオナルドの書斎」の展示でした。2つに分けた展示会場のうち彼の研究成果である手稿とその復元模型とで構成した第2会場の中で、この展示に彼の原点を見た気がしました。

レオナルドは公証人の息子として生まれましたが、婚外子として不遇の幼少期を過ごしました。父親の地位ならば当然受けられたであろう初等教育を彼は受けさせてもらえなかったようです。
その思いが自らを「無学な人」と称する原点となったといいます。

学校教育を受けなかったレオナルドが子ども時代にどのような生活の中で知を獲得していったのかについては、それを詳しく示す展示が見つけられなかったので知る由はありません。しかしながら、家庭教育の条件には、たとえ腹違いの子として生まれた窮屈さはあったとしても、一般家庭のそれとは格段の違いがあったと考えざるを得ません。

かの17世紀の天才ニュートンにしても、豪農の家に生まれながら、絵を描いたり、自然観察をしたり、幼い頃から発明に関心を持ったりという子ども時代を過ごし、家業を継ぐための強い束縛に遭わなかったと聞きます。

レオナルドとニュートンの間にある共通点といえば、絵を好んで描き、自らの目でしっかりと自然観察を積み上げているという点です。特にレオナルドは13歳(17歳では確実)でヴェロッキオの工房に入門したとされるほどで、その実力は十分に推し量れます。レオナルドも多くの時間をスケッチに費やし、自分の目で確かめながら自然や事物に触れていたのでしょう。

とはいえ、「知への渇望」がレオナルドの原動力となったことは間違いありません。

思うに、学ぶ意欲が強い人間は「書物」を手に入れ、そこから思考し、改めて自然や事物の観察を試み、自らの解釈を書き記すものです。

レオナルドが天才であるということは揺るぎない事実でしょうが、これは突然何もないところから湧き出た発明などによって確立されている人物像ではありません。もちろんそのさまざまな分野の研究やその成果を克明に記した手記や手稿、何よりも彼の残した絵画作品における卓抜した技巧や追求があってこそ、天才の名を不動のものとしていることは疑う余地はありません。しかし、忘れてはならないことは、着想や膨大で基礎的な知識の多くをそれまでの研究者の書物から得ているということです。彼の蔵書リストのテーマが多岐にわたることが、彼の好奇心の強さと彼自身の広範なテリトリーを物語っています。まるで一人で総合大学をやってのけている感じがします。まさにマルチ志向、万能といわれる所以です。

さて、自分流のやり方といえば、たとえば「左利き=鏡文字」にその最たるものを感じます。
彼の膨大な手稿、手記において自らにとっての自然な表記が優先されているわけです。左利きの生徒が大変困難な様子で文字を書いている姿は日常よく見かける光景ですが、自らその筆記困難を解放し、追求の手を止めなかったことは大きいのだろうと思いました。

そこで私自身が考えたのは「教育」は天才を育てただろうかという点でした。

「周囲に合わせて調整する」。これは「集団教育」に限らず「教育≒矯正」の名において真っ先になされるものではないかと想像します。今で言うADHDの子どもたちは、ともすると他の生徒との思考パターンや行動パターンの違いから「厄介者」とされがちです。指導の困難さから近年多くの学校現場で問題視され、特別支援の対象となっています。「教育」が、あくまでも周囲との同化を目指すとき、常に指導者側に突きつけられる課題として教育の現場にあり続けるのではないでしょうか。

さて、そうした学校教育にあって、かの「鏡文字」は表記法として受け入れられたでしょうか。答えは「No」です。どんな時代でも「教育」とは前人の教えを伝えることが最優先されます。そしてその知を支える文字は正しく表記することが常に求められ、教育現場での自由度ははなはだ低いものと思われます。レオナルドのような奔放な文字を書く子どもがいたとしたら、指導者にとって目に余り、鼻につき、手を焼く存在として映ること間違いありません。教育の今日的問題は必ずしも現代にのみ適用されるものとは思えません。

レオナルドの時代の教育において、そのおおらかさや柔軟性がいかほどであったかは知る由もありませんし、学校教育制度そのものがいかなるものだったかは想像しにくいのですが、まずは「文字の獲得」というのは古今東西共通しているのではないかと考えられます。

歴史に「もし」、「たら」は意味がないのかもしれませんが、初等教育を受けなかったレオナルドがもしもそうでなかったら果たして天才は存在し得ただろうか…などと想像しながら手稿の文字に見入ったものです。



このようなことを考えながらの鑑賞は全体で3時間あまりでした。

「受胎告知」を日本に持って来るという大イベントに合わせ、知の全貌をつかもうとする意欲的な展示づくりには感心しました。会期も迫ってきますが、まだまだ人気のダ・ヴィンチ。これからという方にもじっくりとご観覧いただきたいものです。

別視点のレポートはまた後日。(あるかな…)
by my-colorm | 2007-05-26 17:34 | アート
とにかく目が痛い。左肩が痛い。そして何より忙しい。

というわけで、ブログ更新に気合いが入りません。
こまったものです。

この間に行けた展覧会はかのダ・ヴィンチのみ。とほほ…。
とりあえず、過労気味。バテバテでございます。

さて本日。初のパワーポイント作品による「色彩」の授業をしました。

おもしろかった…♪

子どもたちも総合学習でパワーポイントを使って「自己紹介」を作成中です。
その指導の一助にと試作したものです。

おかげで総合学習の授業補助も的確に指導助言ができるようになりました。

もちろん、その都度、読みやすいスライドの色の指導にも熱を入れております。

あぁ、忙しい、忙しい。
by my-colorM | 2007-05-22 22:09 | 日記
下北沢で晩ご飯にしようと出かけた。「明大前」から急行で一駅。近い。
ぐるなびで調べたイタリアンレストランが見つかる前に「八百屋」を発見。

「野菜が食いたい」と言っていた息子のニーズにも十分応えられそうである。

もちろん、店頭に野菜が並べられている商店街のお店ではない。
(店頭に野菜がディスプレイされていたのは事実だが)

元気のいい「いらっしゃいませ」のかけ声に招かれ、奥の大きなテーブル席に。
テーブルは16~20席分の広さだが、ちょうど向かい合う客の顔が切り取られるような目隠し板が置かれている。おすすめメニューも貼られ一石二鳥だ。

日頃の食事を思うと奮発したくなる。

そこで「神戸牛プルスキ」のコースをオーダー。7品ものもあったが、他に単品をいただけるように5品のコースにする。

「牛タンわさび焼き」と「ゆばしゅうまい」を追加。

「カリカリベーコンの野菜サラダ」「おからと根菜のコロッケ」…。どれをとっても美味。野菜を堪能した。

ドリンクもなかなか「八百屋」である。乾杯のビールのあとは目の疲れによいという「ブルーベリーとクランベリー」の酎ハイをいただく。日頃酷使しているからねぇ。

「プルスキ」はバターと唐辛子がトッピングされていたが、10種類の野菜にマッチしてこれまたボリューム満点。野菜を食べた感が一層増していった。

さらに雑炊とつづき、もうお腹ははち切れんばかりであったが、タイミング良くお兄さんがデザートを勧めてきた。

「人参のシャーベット」。

テーブルへは2人前のディッシュに花火までついてパチパチ鳴りながらの登場。「Genki」の文字がチョコで書かれている。コーンフレークとフルーツも添えられ、予想外の展開だった。

2人でこれも全部平らげお勘定となった。

イケメンのお兄さんが「クーポンはお持ちでしょうか」と。「ホットペッパー…、ぐるなび…」
たしかに「ぐるなび」でチェックはしたけど今日調べたのは別の場所なので当然ながら…。

「ぐるなびで…」と慌てて返答しつつも困惑気味の私。

しかし、にっこり笑って「大丈夫ですよ」と。

会計は10%引きになっていた。


今回は息子と2人だったが、今度パパと一緒に是非来たいと心から思った。

帰り道。件のコンビニでダ・ヴィンチの当日券を発券してもらう。

今日いよいよお出かけ!と思っているのに、傍らで寝息を立てている我が息子。
やれやれ。困ったものだ。
by my-colorm | 2007-05-05 07:46 | 日記
念願のダ・ヴィンチ「受胎告知」を鑑賞すべく、夜行バスで新宿到着(6:25)。
コンビニに寄り、とあるマンションに着いたのが7:10。

チケットを事前に手に入れようと試みたのだが10:00以降でないと対応できないという結論に達するまで15分ほど待たされた。

マンションに着いて玄関先から中を覗く。
住人は昨日から名古屋に出かけており今朝戻ることになっているので姿はない。
後からいろいろといいわけを聞かされたが、洗濯かごは溢れ、何かを送ったときの段ボールにまで投入したまま。
流しにも食器がまんま放置されている。

う~ん、よほど慌てて友人に会いに出かけた模様。

今日は天気がいい。真東に向かうベランダにはさんさんと朝日が照りつけている。

寝られるはずがないバスの中。そして到着した部屋の状況も私を眠らせてはくれなかった。

1階にあるコインランドリーは7kg投入可能。
300円入れて水が貯まるのを待ち、ふた山の洗濯物と洗剤を入れてふたをする(7:30)。
残り時間は29分と表示されている。8:00には取り出しにこれる。

そして、キッチンの洗い物だ。
これも後からいいわけを聞いたが、1週間放置って、ねぇ…。

乱雑に床にちりばめられた教科書、ノート、プリント類の数々は放っておく。
本人の段取りというものがあるだろうから。

それにしても、ベランダに差し込む太陽光の頼もしいこと。
二本の物干し竿いっぱい許容限度を超える洗濯物で覆われたが、なんとか陽が差す午前中にはおおむね乾燥できそうである。

洗濯物とキッチンの復旧を終え、ブリタで浄水した水をT-falで沸かしてコンビニで購入したモンカフェを淹れる(8:30)。

ようやく生きた心地がしてきた。

部屋の住人からほどなく戻るというメールが届く。

ワンセグでTVを視聴しながら畳んだ寝具セットをソファー代わりにしばし横になって待つ。

住人が帰ってきて、ひとしきり言い分を聞いていたが、そうしながら、しばらくコンピュータでカチャカチャ。
そうこうしているうちに、もうお昼が過ぎた~~。

家政婦じゃないのよ~!!!



展覧会へは明日か、明後日出かけることになりそうである。う~ん。


追記:1時間ぐらいのところに「世田谷美術館」がある。明日あたり、出かけてみようと思う。「世田谷時代の岡本太郎」を開催しているようである。常設の福田茂雄の「アンダーグランドピアノ」も是非見てみたい。

おっと、マンションの住人は名古屋への強行軍(先輩の下宿で朝4時頃床についたそうである)がたたって現在爆睡中。眠いのは私も同じなのだが…(14:50)。
by my-colorM | 2007-05-04 12:48 | 日記
生徒会タペストリーとは、赴任以来担当して今年で8枚目になる、毎年の生徒会テーマを旗にしたものですが、今年も家庭訪問期間中放課後の学級旗制作が終わり、いよいよその取り組みが始まりました。
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制作は生徒会本部の中から数名の担当者の他は1年から3年の有志を募って、放課後、部活動との両立を図りながら行います。

1年生で参加する生徒は毎年大変少ないのですが、ここ数年の様子を見ていると1年目に参加した生徒は続いて参加し、その経験を次の代へと受け渡してくれています。

完成すると裏面に制作にかかわったメンバーがそれぞれ思い思いのサインを残すのですが、3枚名前を書いた!と得意満面の生徒もいます。

さて、その第一回の制作有志全体会に三十数名の参加者が集ってくれました。

本番の終わった吹奏楽部員や春季体育大会で勝ち残れなかったクラブの部員も姿もありましたが、放課後の逃げ場所だけの存在にならないようにしっかり見守って行こうと思います。


さて、そのようなメンバーに原画用紙を配り、この4連休を使って描いてくるように指示して会は終了したのですが、その場に残って描いてもいいかという要望。早々にクラブの練習に切り替える生徒ばかりではありませんでした。

支障がなければと念押しして短時間居残りをさせました。

すると…。

そのメンバーは2年生の子どもたちでしたが、1年生の最初に美術の授業でやった『ブレーンストーミング法』(短時間により多くのアイデアを出す発想トレーニング法)を思い出したようです。ある簡単な図形を提示し、何に見えるか、またはその形を使って絵を完成させるというもので、限られた2、3分の間に、より多く、よりユニークなものを目指して全力で当たらなければならないというルールで取り組む訓練です。

それがなぜここで?と思っていました。それもそのはず。今年の6年生の初授業に2クラス取り組んだのですが、その授業を受けた弟君がそのことをお家で話したそうで「あれは難しくて苦手や」と話す生徒に対して、「いやいやおもしろくて好き」と横から別の意見も出て賛否両論そろいました。

そのうち、「先生、やりたい。問題出して!」とリクエストが…。

意外なリクエストはとてもくすぐったい思いがありましたが、これで案外出題者にとっては難しいものなのです。はてさて、どんな問題を出そうか…。

結局即興で私から2問。そして「問題を出したい」という生徒から1問。続けて絵を完成させるお題が出されました。子どもたちが自発的に取り組む場面はおもしろい体験でした。お題を出したいと言った生徒が一番頭を抱えていたのが印象的でした。確かに難しいのです。こんなことのためにもネタは持っておかなければなりませんね。

タペストリーの原画づくりが思わぬ展開となったわけですが、こうした遊びの中に授業のネタが使われるというのは嬉しいもの。それが豊かな発想につながり作品にも反映してくれると一層喜ばしいのですが。

連休明けの原画がちょっぴり楽しみです。