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スライドウェアというんだそうです。
MicrosoftのPowerPointやMacのKeynoteのようなスライド形式のプレゼンテーションツールのことを。

スライドウェアを、ソフトに導かれるままに作成したのでは、そのプレゼンは、聞き手にとって、印象に残らない、退屈で最悪な時間泥棒になってしまうといいます。たとえ、機能に加えられている、配付資料としてのノートをつけて発表する手法をとったとしてもです。

私もこれまで、学校や色彩の講座で、その例をいくつも見てきました。さすがに色彩や美術の関連で、この人はプロといえるような方の場合、そんなケースは思い当たりませんが、それでも、何度も、見せる気が本当にあるのか疑わしいスライドによく出くわしました。

定番は、単に話している内容をそのまま羅列しただけのスライド。多いのは、やたら文字ばかりで、プレゼンの最中に、発表者が指示棒やレーザーポインターを使って文字を追うだけで、展開になんらメリハリもない上、後ろの方からはさっぱり文章が読めないという代物です。そんな時には、ご丁寧に配付資料がついてることが多いものですから、なおさらのこと、後で読んだらいいかとばかり、睡魔に負けてしまうことになります。

さらに、これは私が色を専門にしているせいで、特に、特に、気になるのですが、文字色と背景色との不具合からおこる見にくさです。色を使えばいいみたいに、黒背景にあれこれ文字の色を変えるので、ギラギラチカチカ、見にくいったらありゃしない。そうかというと明るい背景に明るい文字色のように、差がないために読みにくいものも。手元の画面で見てようやく確認できても、プロジェクターで大きく映したときにほとんど読み取れません。こういうのは、初心者つまり生徒のプレゼン作品にありがちで、総合の時間に野放図に展開された場合に起こってしまいました。それでも、そのときは、イメージ画像を入れるという指示があったので、退屈にはならず、案外救われたケースがあったものです。

はたまた、もう少しさかのぼりますが、かつてPowerPointが出てきて、いろんな人が発表で使うようになり、学校でも流行りだした頃のことです。やたらアニメーションを凝らしてあって、文字列が、どこからかスライドインしてきたり、意味なく回転してみたり。さらにドキューン、バキューンとか、ファンファーレなんかの効果音のボタンを発表者が何度も押して遊んでみたり。まるでソフトの使い方体験講習会の作品発表会のようで、で、あなたの発表内容は何?と呆れ果てたこともあります。発表している本人は得意満面。当初は笑いを誘ったりしたこともありましたが、最近はとんと見ることはなくなりましたね。真面目な場ではひんしゅくを買うことまちがいなし。子供だましです。

それでも、要るのか要らないのか、そうした機能は、ソフトに効果として標準で付いているんですよね。

「プレゼンテーションZEN」では、スライドウェアを、ソフトによる誘導(たとえば、箇条書きのテンプレートなどですが)を極力回避し、印象的で記憶に残りやすいプレゼンにつなげるツールとして、創造的に活用することを提案しています。また、そのための基本的な考え方が、具体例によって押さえられています。

この本は、発表者が、ビジネスマンであれ、学術発表をする研究者であれ、誰であっても、「デザイン力」が必要であると説いています。

人は視覚によって多くの情報を受け取ります。聴き手が、たった一枚の図で、自ら心を動かしながら、話し手の言いたいことをつかみ取ることができる、そんな一枚の図を工夫せよと教えてくれているのです。

「簡潔」「シンプル」「明快」で、見る者、聴く者の「心を引きつける」プレゼンのためにやるべきこと、今このときに人々を集中させるために配る心遣いに気づかせてくれます。

図工、美術がかつてに比べ大幅に時間数が減っている今、コミュニケーションを支える力として、「すべての人が創造性を身につける必要がある」と訴えている点にも注目して、多くの人に読んでいただきたいと思います。


10月の末に、かくいう私も造形教育全国大会での研究発表が待っています。研究冊子の締め切りを今月末に控えながら、まだまだ着地点を見つけられないまま、無為に過ごす日々ですが…。せっかく出会えたこの本。これまでも、教材として使うため、ひと味違ったスライドづくりを心がけてきたつもりですが、今回は、「より明快に」をコンセプトに、発表ツールについても工夫をしていきたいと考えるようになりました。

今日から3日間、少しでも研究を前に進めなくては!!
男性論客に混じって、非常に聡明な40代の女性が目にとまりました。

元旦にソファーに寝転びながら、「激論2009世界はどこへ そして日本は」を、観るとはなく観ていた時でした。

女性の名は勝間和代氏。三児の母であり、経済評論家・公認会計士の肩書きを持つ彼女。その「若者から学びの機会を奪ってはならない」との明確なメッセージに、番組進行中会場から初めて大きな拍手が湧きあがりました。

その論旨。閉塞的な状況を自らの学びで突破する機会を奪うことなく、どの世代にも教育を、学びを。特に生まれ落ちた家庭の経済力によって左右されないシステムを作ることが政治の役割だとしています。番組の最後には、「政治家も官僚も若者ももっと勉強し学んでいかなければ日本に未来はない。」とも言い切りました。

私の中で一気に浮上したこの女性を、その後様々なネット記事で目にすることになりました。

息子が興味を示した(自腹を切って受講するといいます)「フォトリーディング」を実践しているというその読書量は毎月100冊を優に超えるとか。それにしてもこれは驚異的な数字じゃないかな。少なくとも編読していたらそこまでは読みようがなく、それだけ読んでいれば世の中のことが本当に手に取るようにわかってくるに違いありません。だから話される一言一言に淀みがなく、メッセージにパワーを感じるのでしょう。


早速ネットで彼女の本を数冊購入し、表題の本を読みました。


「インディペンデント」とは自立を意味しますが、女性の精神的な自立、経済的な自立が

1 年収600万円以上稼ぎ、
2 いいパートナーがいて、
3 年をとるほど、すてきになっていく。

というインディの3つの条件には不可欠だとしています。

インディな生き方は自身の目標としている理想の姿というより、彼女の生き方そのものをモデルに、今時の成功を目指す女性の行動規範を示した、全女性へのエールともいえます。

世の中が日に日にスピードアップし、変化の加速度が計り知れないものになっているのは、質はともあれ、個人レベルでの日々の情報取得量を見ても明らかです。

私個人にしても、欲しい情報はTBパソコンをネットや地デジにつなげた瞬間から以前の何倍、何十倍にもなりました。たとえば、iTunesのpodcastsも興味を追ってみると次々にDLしたくなりますし…。その情報取得の環境を整える段階はもちろんのこと、そうした強欲を満たすためにもインディな生活はかなり重要だったりします。仮に男性や家庭に従属的に生きて来たとしたら、まずはその扉さえ開くことはなかったかもしれません。

従属といえば、本職の教員は、時間も、職務そのものも、最も私に制限を加える存在に違いありません。しかし、それは一方で私自身のベースであり、インディな生き方に不可欠な自立の現場であったりもするのです。もちろんグループワークもいろいろとありますが、抱える仕事の大半は自分で決定しなければなりません。逆に決定する裁量権が与えられているのだと考えることができるのです。

さて、2つ目にあげている「いいパートナーの条件」は残念ながら私の場合にはほとんど当てはまらないようです。

1 年収1000万円以上でしかも伸びしろがあり、
2 インディの価値がわかり、(女のキャリアや夢を邪魔しないで、パートナーとして助ける)
3 インディと一緒に年齢と共に成長していく男。

だとか。

少なくとも、2の( )のような役割は果たしてくれている気がします。夫はこれまでずっと私の自立を強く妨げる要素ではありませんでしたし、私自身かなり好きなように生きてこれました。



…というわけで、今後も、具体的に共感できるたくさんの部分を取り入れて、より「インデペンデントな生き方」を実践していきたいと思います。

ほかの著書も、女性に限らず、情報収集やアウトプットを大量にしたい、あるいは必要な人にとって、安上がり(初期費用はかかる?)なノウハウが詰まっています。

『効率が10倍アップする新・知的生産術-自分をグーグル化する方法-』
『無理なく続けられる年収10倍アップ勉強法』

参考になさってはいかがでしょうか。
『子どもが育つ条件-家族心理学から考える』(柏木惠子著岩波新書)を読みました。



なるほど、うんうん。
そうだったのか!

-うちも知らず知らず「少子良育戦略」に走っていたんだな。

多子多産の昔に比べ、現代は子どもは「授かる」から「つくる」に変わった。子どもを「つくる」か「つくらない」かの選択の余地があるというのだ。妊娠-出産-子育ての行為は、自分と子ども・育児との間に自己資源の分配をめぐり葛藤が生じやすい。女性の社会進出により、社会における自己実現の可能性が高まりを見せている現代、成長・発達主体であってよい女性が、「母」としてその座から引きずり下ろされるのはとても悔しいことなのである。

とはいえ、子をもうけ、育てることは、夫婦にとって当然の欲求であり、「つくる」選択をすることになる。「親である」夫が不在のまま、「親をする」母として子育ても家事も完全に任されたなら、女性の自己資源は自分には配分されず、子に集中していくことになる。ところで、専業主婦となって子育てを任された場合、仕事をしながらの子育て以上に社会から取り残されたと感じる焦燥感や、将来を見越して、このままでいいのだろうかという不安へと直結していく。日本の子育てでよく問題になる「育児不安」はこうした背景から起きているといえる。

一方、生まれた子が死ぬ事態は昔に比べて大幅に減っている。過去の多産多死の実相は、本書を読んでつかんでいただくこととして、そのため、現代の傾向として「少子良育」の発想が生じている。一人の子どもにたっぷりお金も時間もかけて、競い合うように「先回り教育」が進められるというのだ。こうした中で不幸な親子関係が築かれることが少なくない。その事例もいくつか紹介されていた。


…このように子育てにまつわる様々な考察がわかりやすく書かれている。また、昨今の少子化の中身が語られ、家族の危機的な状況に対し、「親をする」、「子育ち」といった発想法で育児そのものを捉え直すアイデアに共感を覚える。

本書は「家族心理学」という耳新しい心理学と発達心理学の研究成果をもとに、子どもの育ちや、それを取り巻く親や家族のありようを考えた本である。これまでの日本人の結婚観、育児にまつわる社会の常識や既存の価値観について、歴史的な成立過程や国際比較などをもとに、その問題点を明らかにしている。また、ともすると閉塞感や焦り、不安を抱かざるを得ない現代の家庭生活や子育てについて、「親も子も成長、発達できる社会づくりへ」という発想の転換を求めつつ、明るい展望をもたらす指標となる提案が展開されている。

とりあえず私自身の経験や実感が驚くほど当てはまる。あれもこれもドンピシャである。
私の前の世代の結婚観・子育て観と、私の世代の結婚観・子育て観とは大きな隔たりがあるし、次の世代のそれもきっと変化していくだろう。現状を憂い嘆くばかりでなく、未来に展望をもって語られているところが本書の魅力である。

おかげで、私の場合、大方「子育ては楽しい」ものだった。それでも振り返れば、新生児というのはすべてに予測不可能で、特に月齢3~4ヶ月ほどは、ふさぎ込むこともあるほど憔悴しきった時期もある。それは、仕事で帰宅の遅い夫への不満が嵩じたものだった。しかし、育休を切り上げ、半年で職場に復帰してからは、バタバタ忙しくて目の回るような毎日ではあったが、育児不安は解消し、落ち着いて子どもと向き合えるようになったと思う。

子どもは可愛く、仕事も子育てもどちらも気分転換になってバランスがとれた。その影に夫の育児・家事貢献度の高まりは大きい。本書では少数派とされる、子育てのための転職をも敢行してくれた夫の存在が何より貴重であった。

保育園の存在もありがたかった。乳幼児の頃は小規模の家庭的な保育園だったが、4歳で家を購入して引っ越してからは、幼稚園も併設された大人数の保育施設となった。たくさんの園児の中で、さまざまな遊びを経験させてもらえた。一つのことに夢中になったら、とことんのめり込む気質の息子を、園の先生方は本当に辛抱強く見守って下さったものだ。あるときなどは、小さな積み木(ドミノのようなもの)を直径1m近い円筒状に積み上げるのに集中してしまったのだが、自分の身長を超える高さにまで積み上げられたといって写真に収まっていたこともある。こんなダイナミックな活動は到底家でできるようなものではない。しかも、卒園時には園長先生がそんな息子の頭をなでながら「うちの園は、こういう子どもに育ってほしいと思って保育をしているんですよ。」と私に直々に話して下さったときには、本当に感謝の念がこみ上げた。

子育ては「よって、たかって、たくさんで」という理念、自分の教育方針の押しつけで先回りせずに「子育ちを見守る」こと、そして、親が自分自身の成長・発達を実感しながら活き活きと生きることとは、まさに私自身が、夫の家事・子育て参画を背景に、自ら実践してきたことだ。

そのことが、本書には書かれている。

息子はまだ自立の緒に就いたばかりである。生活経験という点では、必ずしも満足のいく段階ではない。経済観念と食生活、生活時間の安定など、まだまだ課題があるだろう。だが、人づきあいや目標実現力、美学芸術学的嗜好などでは、私も舌を巻くところがある。乳幼児期には正直感じていた、「私のもちもの」でも「分身」でもなく、今は自立した「タカラ」的存在という感じだ。「所有」ではなく、「見守る」という性格の。

経済的自立はまだ先になるだろうが、その基盤となる進路選択の時期がやってきている。余計な口出しはしないと決めているが、ついつい心配になってしまうのが「親心」なのである。
色彩指導者養成講座の後、読み残しを解消した分と帰省中に読んだ本を振り返っておこうと思います。

まずは…。

衝撃の一冊。そう評するしかない。この本の内容が本当だとすると…と、かなり不安を煽られる。
『脳内汚染』(岡田尊司著)。2005年に単行本が出たとき、印象的なタイトルが目に留まったがカバーがグロテスクだったので、手に取ることはなく、そのときはスルーした。今回文庫本の背を追っているうちにふと引きつけられた。

その前日、帰省で出迎えてくれた義姉と、車の中で話をしたところだった。
「…アスペルガー症の人に対してする接し方というのがあるんだけど、その接し方で親御さんの面接をしたら、やっと信頼を得ることができたの。あれが気になる、これが気になるって興奮して言ってたのが、最後には娘をよろしくお願いしますって。…」義姉は長年、発達遅延園児を預かる公立保育園の保育士をしてきた。昨年から職種が変わり、保護者対応や若い保育士を育てる立場になったという。その日も発達遅延園児の入所保護者面接があったが、難しい対応を要求される場面ではいつも自分が出て行かなければならないと漏らした。その話に対して「そういった症状、最近よく聞くようになりましたね。中学校でも増えていると感じます。昔とちがって認知度が上がったせいですかね。」と訊ねると「いやぁ、名前が知られるようになっただけとはいえない気がする。」と曇りがちな声色が返ってきた…。

著者は医療少年院に勤務しする精神科医である。あくまでも仮説であるとしつつも、凶悪化する少年犯罪の背景を、人類がこれまで経験したことのない高度情報化社会の、脳にもたらす影響にあるとし、メディア依存が少年犯罪を引き起こしている可能性が高いと断じている。少年事件を機に実施された寝屋川市の教員によるアンケート調査の統計資料分析が論拠だ。また氏はADHDやアスペルガーとの関連についても言及している。

主な論点を挙げる。
まず、統計上、ゲーム中毒・ネット中毒になりやすさについては、就学前ないしは小学校低学年で家庭用ゲーム機に接した場合に高い傾向を示すという。また、早期にゲームに接しやすいのは、意外だが、素直で明るく活発な子どもたちだそうだ。ここでいう中毒とは、毎日4時間以上ゲームやネット、メールに費やし、引きこもり等、学業や生活態度に何らかの支障をきたしているレベルを差す。家族に注意されたり、止められるとイライラを爆発させ、暴力をふるうなどの問題を抱えた深刻なケースが多い。
ゲームにおいて特に問題視しているのはその中毒性である。親が子どもの喜ぶ顔を見たくて、あるいは面倒な子育て(語弊はあるが、子どもというのは大人がつきあいきれないほど反復が好きで要求してくるものだ)を代替するため、安易にビデオやゲームを与えてしまいがちだ。たとえ初期の段階で、客観的にそれが無害な内容であったとしてもそれが落とし穴だ。はじめる時期が早ければ早いほど、後年になって没頭するケースが多く、高校生など長じてくると、その内容は親がコントロールできない状態に陥る。より強い刺激を求め過激な内容にどんどんエスカレートしていく。そしていわゆるゲーム依存、ゲーム中毒へと進んでいくのだ。また、仮にゲーマーにならなかったとしても、ゲームを卒業すると、興味が別メディアであるネットへと移行しやすく、結局ネットに没入し中毒へと進むケースが多いという。
○○中毒、△△依存ともなれば、他の、薬物やアルコールなどの物質依存同様、社会生活に何らかの問題を抱え込むことになる。そうなると素直で明るく活発な子どものイメージからはほど遠くなる。自己中心的な言動が目立ち、身の回りの現実に対して無気力、無関心で、少しでも注意する人を敵と見なし、攻撃する傾向が出てくる。昼夜逆転による遅刻、居眠り、欠席…。また場違いな発言を繰り返してしまうなどのトラブルがもとで、社会生活を嫌い、自分の居場所であるゲームやネットの世界に引きこもる…。
著者はさらに長時間ゲームに没頭することの弊害として、脳の前頭前野の発達不良を挙げている。前頭前野は人が人らしくあるための働きを担っている、いくつかの部分から成り立っている。記憶・創造性・自制心・意志決定・コミュニケーション…。あらゆる人の行動をコントロールする働きが件の前頭前野に任されているのだ。(その発達は、10歳前後までにピークがあるらしい)ところが、ゲームをしている間は視覚と反射運動を司る部分は活発に活動しているが、前頭前野にはほとんど活動が見られないと指摘する。
ADHDやアスペルガーとの関連については、その症状の子どもが、ゲームに熱中しやすいことを挙げている。また、後年、人との濃密な係わりの中で前頭前野が発達し、症状がなくなるか軽症化する期待があるのだが、ゲームに長時間熱中するあまり、その機会を逃している可能性が高いとも推測している。

だが、最も著者が問題にしているのは、一般的に、人間らしさの発達著しい年代に対する、ゲーム・ネット・メールあるいはテレビ・ビデオの存在そのものである。彼の問題提起は、それらに注ぐ時間が、家庭生活の中で、あるいは学校生活の中で、本来の人間活動にじっくりと費やされたなら、どれほどの効果をもたらすだろうかという点にある。若者のコミュニケーション力の低下、ニート、不登校、ひきこもりといった問題の要因がメディアの発達にあると断罪しているのである。

そして、もう一つ忘れてはならない提起は、垂れ流される悪意のある映像メディアの問題である。若年の柔らかな脳に刻みつけられる残酷シーンの悪影響。TVでも大人が目を覆う映像がしばしば放映されることがある。また大人が放置した俗悪ビデオを子どもが見てしまうケースも考えられる。ましてやネットには様々ないかがわしい専門サイトが存在する。家庭にいながらにして親の知らないところで本人でさえ思わぬうちに易々と想定した状況を超えられてしまうのである。こうしたことから受ける心的外傷が、長じて首をもたげてくることがある。どこでどうその子の人生に狂いをもたらすか予測不能であるというのが著者の大いなる心配だとしている。凶悪犯罪はメディアの発達曲線と同期して増えている。著者は本の中で繰り返しこのことを論じ続けるのだ。



はてさて、かれこれ40年以上もメディアに触れている私などはどうなんだろう。映像メディアに関してはどっぷり浸かった世代である。ここで自身のことを振り返ってみたい。

私は、4歳のときに東京オリンピックを迎えた。そのときに、白黒テレビではあったが我が家においてメディアの洗礼を受けていることになる。当時テレビは家族で視聴することが多く、ちゃぶ台があり、お父さんが仕事から帰ってくると点けるとか、兄妹で視聴するにはチャンネル権というのが存在した。それがもとで喧嘩をし、何度泣かされてきたかは言うに及ばない。
そんな私には、家族にとって空白の独占時間があった。5歳の時、上の兄が小学校、下の兄が保育園年長。なぜか私だけ家に居るという1年があった。母は保険の外交員として働いていて、当時、母が集金業務に出掛けると一人で留守番をしなければならなかった。一人で過ごす間、心細さをなぐさめてくれたのがテレビだった。テレビに子守りをしてもらっていたわけである。長じても、「テレビっ子」とは私のことをいうのだと自認せざるを得ない状況が私にはあった。どの年代でも学校から帰るとスイッチon。見ると見ないとに関わらず、とにかく電源を入れるのが習慣だった。思い起こせば、我が家が新築されたとき、6年生だったが、テレビを置く場所を決めたのは家族の中で最年少の私だったのである。それからテレビは不動の位置にあって、もちろん一番たくさん視聴したのは一番暇な私なのである。主なチャンネルはNHKかNHK教育。仮に他のチャンネルを視聴していても家人が帰ると必ずNHKに切り替えられた。今でもNHKは私の中で良質な番組を作り続けているという絶大な信頼がある。色んな不祥事が続いても揺るがないのには40年以上の長いつきあいがあるからなのだ。

ま、それはさておき、「中毒」とか「前頭前野の未発達」についてはどうなんだろう。

救いと思えるのは、いくら遅くまでテレビを見たくても、テレビには深夜放送というのが無かったのである。記憶が正しければだが、私が10代の頃、終日放送していたのは大晦日からお正月にかけての数日だけだったのではなかろうか。
どぎつい映像にしても、刺激がきついと思われたのは『イレブンPM』程度。プロレス中継はさすがにハードで、流血シーンもあったが、幸いにしてそういう類は好まず、熱狂してテレビの前で技を掛け合う兄たちに辟易していた。ただし、積極的に視聴していた『仮面ライダー』については、それを真似て男の子にライダーキックを浴びせて恐れられていたのは事実である。とはいえ『サインはV』などには触発されて、友だちとバレーボールで鍛え合い、日が落ちるまで外で遊んだ貴重な記憶もある。
放送の送り手の気概に支えられてか、私はテレビで様々な疑似体験もしたし、たくさん感動をもらってきた。勉強時間は確かに削られたものの、「アニメ」から漫画本に移行して、絵を描くことにも、文学に触れることにも発展した。幸い、部活も生徒会も授業や試験もどれひとつ手を抜くようなことは無かったから、少なくとも中学生の間は「勉強、勉強!」と親から急き立てられることは無かった。何より学校の行事が大好きで下校時間まであれやこれやと残って過ごしていた。それが今の職業へとつながっているのに違いない。もとより高校・大学ともなるとすでに親の口出す場面はない。どう過ごしたかはこの際省略するが…。

とはいえ、メディア漬けの影響が一切なかったかというと、そうも言い切れない。ちょっと気がかりな心当たりがあるので紹介しようと思う。

それは高校三年生の夏休みのこと。美大受験を視野に入れて、名古屋のとある予備校へ実技レッスンのある夏期講習に約一週間だっただろうか、宿泊して受講した。このとき、宿舎は真新しい、その予備校の寮で、様々な志望を持つ受験生が泊まっていた。受講初日のことである。食堂脇には書棚があり、いわゆる赤本や見たこともない受験用の問題集がズラリと並んでいた。いくつか手に取ってみたものの、自分も受験生のはずだったが、どの問題も目に入っては来なかった。まるで別世界にいるような気がしたものだ。それで、食堂で一人、何気なくテレビをつけてみた。すると、すぐさま寮母さんがとんできた。「テレビ消しなさい!何しにきてんの!ほかの受験生はみんな一生懸命頑張っているんだよ!テレビなんか見ているのはあんただけだよ。(受験生という)自覚あんの?」と、いきなりまくし立てられた。呆気にとられた。「何もそこまで言うことないじゃん!ここにあったからつけてみただけなのに。」と口をついて出そうな言葉をなんとかグッと飲み込んだ私は、その場では「ごめんなさい。」と言って頭を下げはしたものの、その後、寮母さんが見えなくなると、ほおを膨らませ、プイっと唇をとがらせて自室に走り帰った。部屋に戻っても興奮が治まらず、一人布団に顔を埋めて泣き続けた。無性に腹が立った。他人に注意されることなど、そのときまで、ほとんどなかったのだ。悔しさが何度も何度もこみ上げてきた。それからである。自室に小さなキッチンがあったので、自炊か外食で食事を摂ることに決め、二度とその食堂に足を向けることはなかったのである。
必要以上の興奮と徹底した他者拒絶。考えてみれば、それこそがテレビ中毒の症状だったのかもしれない。今にして思えば本書の内容は他人事ではすまされない。このエピソードはある意味で一つの好事例といえはしまいか。たかが一少女の反抗心、されど反抗心。この程度といってしまえばそれまでだが。

40年以上映像メディアにさらされている私たち。しかし何千年も続く人類史の中でたかだか40年である。確かに未知の領域であることは否定できない。だから著者が指摘している様々な危惧が、妥当だといっても言い過ぎではない気もしてくる。しかしながら、問題が重すぎるし対処のしようもなく、さらにこうしてネット活用をし続けている私だけに、本書の内容を全肯定はし難い。が、かといって全否定もしにくいのである。現実的には、いきなり映像メディアを全廃することは全くもって不可能なことだ。ここまで発展し、優れた技術で、個人に対して多くの情報をもたらすメディアを今更放棄するなどという所業は私にはできない。それは、何人にもいえることなのではないか。

私なりの結論を言えば、本書をゲームやメディア依存に対する警告の書として片隅に置いておくこととする。未知の領域に踏み込んでいるからといって、いたずらに不安に感じることだけは止めておきたい。目の前にいる子どもたちは必ずしも不健全な状態とは言い切れないし、もちろん十分とは思えないが、しかし、壊れてはいない。たとえ個々に悩みや生活の崩れがあったとしても、それがきっかけで起こされるアクションをサインとして受け止めていきたい。アプローチしていくチャンスはいくらでもある気がする。そうしながら、もう少し長いスパンで経過を見ていくしかないと思う。

それにつけても背筋がゾッとするような一冊、そんな本に出会ってしまったと言っておこう。

本は義姉に譲ることにした。「ヤバい本ですけど、昨日話していたことに関連がありそうなので差し上げます。読んでみて下さい。」と。

次の日、義姉は「なんだか怖そうな内容だねぇ…。」と、目次をさらっと見たといって、一言感想を聞かせてくれた。



皆さんもまだの方は一度読んでみて下さい。その内容を信じる、信じないは別にして。
特に子育て中の方、怖いですが、現代の若者世代に起きている様々な事象の、原因の一端を知る機会になるやもしれませんよ。

ゲーム、ネット、メール…はほどほどに。生の人間同士であぁでもない、こぅでもないと対話しながら前頭前野を鍛えましょう。一人で前頭前野を鍛えるなら、DS脳トレ!あれ、それってゲームじゃん?懲りないメディア依存症?ん?

葛藤が起こるなぁ、この本。
ハリー・ポッター第7巻翻訳本が23日に到着します。

原作本から1年。すでに内容は知っていますが、これはこれで本当に楽しみです。


先週、映画館の帰りに本屋さんに立ち寄り、三連休に読む本を仕入れてきました。
ハリー・ポッター到着までのつなぎ(?)です。


『色の名前に心を読む 色名学入門』(近江源太郎 著)

今年の4月に発行されたもので、色名を色彩学の様々な角度から捉え解説しています。
検定各級の副読本として参考にするといいでしょう。色名事典とは異なり、カラー図版は口絵に6ページ割いているのみですから、読むのが苦にならない方なら、持っていてもいいかもしれませんね。「基本色彩語」など、色名の歴史的変遷や文化比較などにくわしく言及されていて、「入門書」というわりにはハイレベルな印象が…、と感じるのは私だけでしょうか。


『エクセル 「頭のいい人」の使い方』(中山真敬 著)

一時期、「頭のいい人」がらみの本がとどまることを知らず続々出ていましたね。「△△の品格」本、「○○力(りょく)」本もそんな気がしますが…。そんなネーミングの一冊です。

成績処理に使う程度のエクセル使用は全く苦になりませんし、「使えている」、と思っています。でも知っていれば随分スピーディに作業が進むだろうというワザがまだまだ隠れていそうなのも事実。だって使用歴が長いわりに未だに目からウロコのワザを同僚から教わることがありますもの。他人のやり方を見ていると全然違っていて驚くこともしばしばです。使用者によって、同じことでも随分過程が違うというのも、考えてみればおもしろいことですよね。「なあんだ、そうやればできたのか」というやり方を教わるのもうれしいのですが、できればこちらが教えて、ありがたがられる方がよほど楽しいですよね。その手のネタ本がこの一冊です。

見開き2ページで1項目という親切な解説で100のワザが解説されています。主としてショートカットキーを上手く使うことでマウスとキーボードの切り替えを省略し、ストレスなく作業をする手立てを教えてくれます。私はもともとマウスが大嫌い。いちいちキーボードに移動するのが面倒なのです。その意味では志向に合っていると思いました。そういいながら、ショートカットキーの活用は今ひとつな私。なのでこのネタ本はちょっとうれしい発見がいくつもありました。本で得たワザを習得して、一秒でも仕事時間を短縮したいと思います。


『CASA BRUTUS 8月号』

サグラダファミリア聖堂の写真でほぼ反射的に購入いたしました。少し前、2026年(アントニ・ガウディの没後100年)完成説も出てきていましたが、同誌では、完成まであと30年と書かれています。それにしても副主任建築家ジョルディ・ファウリさんの名前が懐かしい。(NHK地球に乾杯『ガウディの謎を解け』1999年5月放映→最近久しぶりに授業で使いました)にたしか当時38才で出演していました。)そして、その番組で検討されていた柱のつなぎ目もしっかり完成し撮影されていました。8年前に訪れた時は確かまだ工事中だった部分です。あと30年か。射程圏内ではありますね。頑張って生きよっと。


『MODEetMODE 2008夏号』

色彩指導者養成講座で色彩構成演習があり、豊富なカラー版で構成された雑誌が必要とのこと。この手の雑誌は普段無縁なのですが、とりあえず手にしたのがこれ。プレタポルテ・コレクションのこの秋冬、つまり最新版です。CASAの今月号の広告ページに登場した目が飛び出るような値段のドレスも載っていて、これらのコレクション、値が書かれていないけれどどれも相当なお値段なのでしょうとあきれつつ眺めていました。世界に1、2着(多くても数着)という希少価値が値を決めているとはいえ、溜息ばかりですよね。おまけにモデルのスタイルがいい。どんどん無縁になっております。


『大人の友情』(河合隼雄 著)

昨年、京都市の教員を前に示唆に富む講演をされた直後、急逝した氏の著書。文庫本として今年2月に発行されました。Bunkamuraル・シネマで観た「ぼくの大切なともだち」が心に残っていて、背表紙のタイトルと著者名で手に取りました。

ユングの研究のため留学した氏が、「友情」についての講義で聞いた話。若いときに自分の祖父に「友情」について尋ねたら、祖父は、友人とは、「夜中の12時に、自動車のトランクに死体を入れて持ってきて、どうしようかと言ったとき、黙って話に乗ってくれる人だ」と答えた、というエピソードを披露してくれた。…というくだりがあります。

そんな極端な話は現実的ではないにしろ、「ぼくの-」に優るとも劣らないほど考えさせられる本です。まだ途中ですが、ゆっくり読もうと思います。


『てのひらの迷路』(石田衣良 著)

NHKの番組で、関連性のない3つのキーワードをもとに24時間以内に絵本を完成させるというタスクを背負い密着取材を受けていた実力派の作家ということで認知いたしました。’97年デビューし、以来、連載を何本もこなし、取材にもばんばん応じる超人気作家とのことです。その短編集の一つがこれ。一編ごとにコメントがついているのですが、‘03年の直木賞受賞前後の短編作品であることが分かります。彼の作品のほとんどが東京を舞台にしていますので、東京行きが増えてきたのもあり、結構注目しています。最新(と思いますが)の『ブルータワー』も長編でしたが一気に読み進めました。なかなかおもしろかったです。まさに同い年の作家ですが、独特の透明感や軽快さで読みやすい作品ですね。大人の女性ファンが多いのではないかと思います。同い年といえば、「○○力」の齋藤孝もそうなのですが、共感するところが多いです。こちらもよく読んでいる方だと思います。


『ゲルニカ ピカソが描いた不安と予感』(宮下誠 著)

まだ読んでいる途中の本ですが、「キッズゲルニカ」に取り組むにあたり、勉強用に購入しました。ゲルニカ空爆のニュースを聞いた直後、1937年5月1日からスケッチが始まったのですが、45作の習作を網羅して解釈を加えています。初版が今年の1月。なかなか示唆に富む解釈がなされています。もうちょっとじっくり読む必要ありですね。


三連休、結構読めましたねぇ。色んなジャンルの読書がやっぱりいいですね。
今年は源氏物語千年紀だそうです。

学校が冬休みの間にと、今年も色々と本を読んできました。昨日、ニーチェのルサンチマンに関する消化不良(息子の「ルサンチマンの哲学」永井均著を借りて読んだのですが、よく理解できませんでした)を解消すべく、書店に向かいました。

もう次の日から学校が始まるというのに、本屋さんでは件のニーチェ関連の「これがニーチェだ」永井均著、「自分で考えてみる哲学」ブレンダン・ウィルソン著、「『色彩と心理』おもしろ事典」松岡武著、「シカクいアタマをマルくする。国語編」日能研企画編集、「ビギナーズ・クラシックス源氏物語」角川書店編の5冊を購入しました。

早速家に帰って、読み出したのが「源氏物語」です。

「源氏物語」というと、田辺聖子さんのものや瀬戸内寂聴さん、与謝野晶子のものなどなど、その現代訳本も数々出ていて、皆さんもご存じのことと思いますが、はじめて読むに当たって、とにかく全体を俯瞰できるものという観点で探すとすれば、最もお手軽なのが、「ビギナーズ・クラシックス源氏物語」なのではないかと考えました。

巻名のみ(本文なし)の「雲隠(くもがくれ)」を含め、まさか54帖からなる大作をたった一日で概観することができるとは予想だにしていませんでしたが、平易な表現でよどみなく、あっという間に読み進みました。

「源氏物語」の難解さは、主語が省かれ、複雑な敬語表現がなされる点にその原因があると言われます。確かに原文だけを通し読みしても、誰が?の疑問が出てこない帖はありません。

この「ビギナーズ・クラシックス源氏物語」は、主語がはっきりしていて、特殊な敬語表現がなく、また、古語の語釈といったものまで省かれていますので、原文の読み下しを目標にしている者にはほとんど手応えがないところでしょうが、とにかく通して源氏物語の世界を感じたいという者にとってはこの上ない配慮がされています。

構成としては、全帖の、あらすじ、抜粋の通釈・原文、さらにはそれらの総ルビと寸評とでいかにも読者は現代の言葉で源氏物語の世界をイメージすることができるようになっています。

それにしても、「冬のソナタ」に心を奪われる私たちの原点かと思えるような、世代を行き交う因縁めいた恋愛模様や、世代間の気質の変化など、現代にも通じる部分が多々あるものと感心しつつ、3時間ほどで一気に「夢浮橋(ゆめのうきはし)」まで進んでしまいました。

皆さんも、この千年紀に、今一度「源氏物語」の世界を覗かれてみてはいかがでしょうか。その易しい方法として今回の本をお試しあれ。

またその上で、京都、宇治にお越し下さるのも一興かと思います。
同僚や子どもたちと話をしていて、突然言葉につまったり、「ほらほら、アレ、誰だっけ、ほらっ、え~っと…」てな具合で芸能人の名前が出てこなかったり…という経験が増えて久しい私です。

最近本屋さんの書棚で見つけ、築山節(つきやまたかし)さんの「フリーズする脳 思考が止まる、言葉に詰まる」(2005年NHK出版)を読みました。脳神経外科専門医としての数多くの診断治療の中から、あるいは、自身の多岐にわたる読書や異業種交流などによって得た、高次脳機能の低下を防ぐ様々な生活改善の仕方を、具体的な症例を交えてわかりやすく説いています。

忙しい毎日、学校という職場は案外変化に富み、いつでも脳がその変化への対応を迫られているようです。私などは、担任をしておりませんので、対応し解決していかなければならない問題は、数にしても量にしても担任さんの比ではありません。が、若い担任団へのサポートという点では毎日あれこれと考えさせられることが多く、週末はへとへとになっております。そうした中で、「色彩」をライフワークにできていることは、私の脳にとっても大変有意義であるというのが、本を読んでいてわかりました。

時には、あまりにも忙しくて本業を投げ出してしまおうかという考えがもたげてくるのですが、どうやら築山氏によると、したい勉強があったとして、それまで両立を図りながら回転させてきた脳にとって、勉強に専念するために仕事を辞め、逃げ道を与えることは、もっとも「ボケ」る危険をはらんでいるやり方らしいのです。忙しいからこそ勉強しようという意欲が湧いている、勉強1本になったら初めのうちは取り組めたとしてもそのうち効率が落ち、次第に勉強しようと言う意欲もなくなり、ひいては、恐ろしいことに何もできなくなってしまう可能性もあるのだと…。

あまりにもそのしくみがリアルに迫ってきましたし、現状の速い基本回転数が私の生き方や脳の働きをつくっているのだということも容易に納得できました。それにしても、図らずも、仕事漬けから一転、学ぶべきことを見つけ出せ、異業種の方々と交流を持つことができているのは、少なからず良い影響を与えて頂いているというわけです。皆さんに感謝、感謝!です。

これからも日々の忙しさにめげず、(でもほどほどに)二足のわらじを履いてやっていこうという思いを強くした一冊の本との出会いでした。

ところで、メールやネットサーフィンなどのネット依存は脳にとってはあまりよろしくないそうです。インターネットもうまく活用することが脳の機能低下を防ぐポイントだそうで、その一つとして積極的にブログを書くことだけはどうやら脳にとってはよいことのようですよ。

というわけで、本日2つ目の記事でした!(長続きはしない予定…^^;)