版画「私の風神雷神」

夏休みに鑑賞した映画「トントンギコギコ図工の時間」の中に、思い思いの風神雷神を版画で表現するという場面が登場します。映画では5年生の題材でした。子どもたちが熱心に彫刻刀で板を削っていくときの静謐な音がとても美しく、魅了されました。

今年教えている2つの小学校の6年生が取り組む版画の題材をどうしようかと考えたとき、「やらせてみたい!!」そう強く思いました。



京都市で採用されている日文の5・6年上の教科書、口絵のページに「風神雷神」が載っています。しかも1500年前の「敦煌莫高窟壁画の雷神」、鎌倉彫刻・蓮華王院(三十三間堂)「風神雷神像」、江戸時代・建仁寺・俵屋宗達「風神雷神図屏風」、2001年世界卓球選手権ポスター」と、そのルーツと模倣と展開の流れが特集されています。

これは鑑賞から制作へと展開しやすい紙面構成であると直感しました。

そしてこのぺージを使うことは、美術作品の「受信」と「発信」の関係を子どもたちにとらえさせる好機であると感じました。

6年生の子どもたちに、自分なりの表現をすることの意味を深いところでとらえさせることができるかもしれないと、期待感を持ちながら授業を展開することにしました。

ペアを組んでいるベテランの先生に題材を提示すると、「仏像」で版画を取り組んだことがあると言って10枚ほどの作例を見せてくださいました。それは確かに6年生の版画としては「うまい」金剛力士像であるし弥勒菩薩ではありました。でも私の中にある作品のイメージとはかけ離れているという思いがしていました。「う~ん…」しばらくそれらを見ながら考えました。

そして、これから展開しようとする授業が、「模写」ではなく、自分だけの表現を求めるものであり、版画技法としての基本的な手法は押さえるが、できあがった作品はかなり印象が違ったものになるはずだとの説明をしました。

その打ち合わせの過程で、当初私が手法として予定していた「彫り進み版画」はオーソドックスな「彩色木版画」に変更することになりました。互いに納得のいく授業づくりという点でテーマは「オリジナルな風神雷神」で、技法は指導の見通しのもてる「単色木版画」でという一致点に到達したのです。

さて、一つの名画、名作がある日突然とある天才的な人物からいきなり生み出されるのではない。私は常々そう考え、子どもたちにもそう教えています。今回も、誰かが過去の誰かの影響を、知ってか知らずか、受けながら(=「受信」)、自分の持ちうる能力とその時代の勢いを借りて発したもの(=「発信」=表現)、それがこれらの作品なのだと子どもたちに解いて見せたのでした。

一体「風神雷神」の姿を見たものはいるんでしょうか。→実在しない、想像されたものだから誰も見たことはないはず。

でも、教科書の風神雷神はそれぞれよく似ているね。→古い絵を見て真似したんだろう。

その様子を制作年代に注目して見てみよう。→(教科書の添え書きから)1500年前が一番最初に描かれたのがわかる。

とはいえ、まるっきり一緒じゃないね。→自分らしいものに変えて表したんだろう。真似するのはかっこわるいことだ。

そうか、マル写しはかっこわるいんだね。自分の考えを入れてさらに新しいものを創っていったんだね。


…そういう鑑賞をしてから、「では、今回版画をやります。題名は『私の風神・雷神』です。」

子どもたちの反応はとても明るいものでした。何より「描きたい!」という気持ちが感じられました。ちょっと上の方を見つめながら手が止まっている子どももいます。一生懸命考えているのでしょう。しばらくすると何やら手を動かし始めています。いつもながら子どもたちの進み方は十人十色です。見ていて本当に楽しい。

早速取り組んだ下絵は教科書のそれらと似ているようで似ていない、似ていないようで何となく似ている…、つまりどの子も違うけど、どれも「風神雷神」になっているという、期待を裏切らない作品が次々と展開していきました。

ちょうど、北海道のサロマ町で痛ましい竜巻の被害のニュースが飛び込んできました。本当につらく厳しい災害を天はもたらします。しかしその天災についてもあえて語ることにしました。

「こんなに大きな力で人々を脅かし、困難を与えるものが一体何なのか。それを私たちにはどうすることもできない、ある意味納得できないのだけれども、しかたないと受け入れなくてはならない。そこで、神という形に表現したのではないかな。人間は小さくて弱い、とても太刀打ちできない自然の恐ろしい力。そんな強大な力を持った姿としてみんなの風神雷神は表現しきれていますか。ゴムチューブのような腕やこんな直立したようなポーズで描いている人はいませんか?(ダラッと手をおろし弱々しい姿を演じてみせる)被害にあった人々はそんなひ弱な風神雷神で納得してくれるでしょうか…。」

そして、実際に体を使って、思いっきり力を入れてみる、自分がパワフルな風神になったつもり、雷神になったつもりでその威力を発揮するポーズをとってみる。そのときの腕の筋肉をさわってみる。友達にポーズをとってもらう…。教科書をお手本的に見るのではなく、自分の想像ではまかないきれない部分を補うために活用している子どもたちの様子も多々見られます。自分でわからなくなったらどう表しているのか参考にしなさいと、あえて見ることを勧めたわけですが…。

また、「お話の絵」の題材で人物を避けてしまう傾向が強かった一つの学校においては、「ひとのからだ」という性教育の参考図書として使われるだろう絵本の中から骨格や筋肉、関節のページを使って、人を表現することから逃げず、ごまかさずに、知って調べて感じながら描こうという学習を挿入しました。本題材にスムーズに入っていくには意識的に筋肉の盛り上がりや関節の存在を見ていく必要がありました。

こうして描かれた原画に見られる、それぞれに力強い、迫力のある、時にはユーモラスなポーズの思い思いの「風神雷神」に、一緒に授業をみてくださっている双方の先生方からは、「それぞれに違っていいですね。」「おもしろいですね。」「こんな怖そうな表現ができるんですね。」との感想をいただいています。

彫りに入っている学校では、作品を渡すときにどの子も表面を見せるだけで(名前を呼ばなくても)自分の作品を取りに出てきてくれます。それだけ自分の作品を覚えているし、似たような作品がないということなのだと思うとうれしくなります。

そんなあるクラスの数名が本日試し刷りに入りました。もうすぐ完成が見られると思うとワクワクしてきます。

2つの学校で同じ題材に取り組んでいますが、子どもたちの実態もそれぞれに違いますし、迫り方も少しずつアレンジが違ってきます。それらがどう作品に反映されるのか、私自身、大変興味深く感じています。一体どんな声かけが子どもたちの制作に影響していくのか。それこそ授業者の「発信」がどう「受信」され、それが子どもたち自身の内部で気づきのきっかけとなって、どんな情報の組み替えが起こり、またどんな新たな「発信」を生むのか…。そこには単に授業者と生徒という「声かけ」と「受け止め」の単線の関係にとどまらず、子どもたち同士の関わり合いや子ども自身の様々な経験や記憶、そしてモチベーションの違いが複雑に絡み合います。

私の授業観自体も、「受信」と「発信」の繰り返しの中で大きくうねり出している…この記事を書きながらそんな思いを強くしています。

不思議ですね。