一枚の絵

f0008085_2144274.jpg
「カントリースクール」(1871年ウィンスロー・ホーマー作)

北海道の美術教師で以前そのブログを紹介させていただいた山崎先生と本ブログにもちょくちょくコメントを寄せてくださる大学時代の同級生の土屋先生とのネット上の共同研究となった鑑賞授業。この作品について子どもたちとの授業でのやりとりを大雑把ではありますが紹介しようと思います。





土屋先生のコメントからアメリカの南北戦争(1861~65年)との関わりは少し意識していました。奴隷制を敷く農村地域である南部とそれに異を唱える北部地域との内戦。結果南部が敗れ、奴隷制は撤廃される…。(程度の知識なんですが…)

さて画面で目につくのは、教室の中で、裸足でボロボロのズボンを履いている男の子です。同じように裸足なのは2人なのですが、組まれた足の裏はドロドロで、ズボンの裾はズタズタ。そして少し離れたところで本を顔に押し当てているように見える男の子の膝に穴が開いています。

この部分は「どんなことに気がつきますか」の質問にいち早く答えが返ってきました。

「ほかはどうですか」というと右側にいる小さな男の子がべそをかき、それを隣の女の子が気にかけている様子を発表してくれます。
これには諸説。
「女の子が意地悪を言ったので泣いた」
「いや、男の子にもう泣いたらあかんって、なぐさめているところや」
「先生にトイレに行きたいと言っているのに聞いてもらえず泣いているんだろう」
「きっと左の年上にいじめられたに違いない。それで先生が注意しているのに年上は本を読んでいる振りをして無視しているから、男の子は泣きやまないんだろう」


服装については、左の男の子たちのボロボロな服に対して、右側の子どもたちは皆きれいな身なりをしている。スカートもフリルがついてふわふわだし、靴下に革靴をきっちり履いている。と観察して述べてくれます。

そこで、「わかった。左は貧乏で右は金持ちや。」誰かがそういうと授業が動き出しました。

「そうや、左は貧乏のうちの子を集めて座らせているみたいやし、右側はきれいな服を着た金持ちの子ばかりや。教室を分けている。」
「カーテンも左は薄汚れてるし、ガラスも割れてへんか。」
「壁もなんだか汚れてるなぁ。」
「机もボロッちいし傷だらけ、なのに右の机には花まで飾ってある!」
「それで、先生はなんだかムッとした感じでなんだか左の子らに説教してるんちゃう?げんこつ机に押し当てて…」
「でも、生徒は無視みたいな…」
そして、
「先生、これ差別ちゃうか?」

う~ん。そこで、私は「この作品は何年に描かれたものですか。」と訊ねることにしました。

「1871年。床にも描いてあるなぁ。」「あ、これ名前も?」「ほんまや」

「そう。これはサインというものです。画家が絵を描き終えた印に自分の名前や日付などを書きます。この場合まるで床に描いてあるかのように見せていますね。」

「それでは、これはどこですか?日本ですか」

「外国。アメリカ?」

「これが描かれる前にある出来事がありました。それは何でしょう?」

「…」
「戦争?」

「そうです。この絵はアメリカの南北戦争という戦争の後に描かれたものです。」

そういって黒板に「1871年 南北戦争(1861~65年)」と書きました。

そして、「南北戦争というと南部の農村で黒人奴隷を使って農業をする人たちとそれに反対する北部の人たちで戦った戦争ですが、結局北部が勝って奴隷制は廃止。なくなりました。アメリカであったそんな戦争の後の、カントリースクール、田舎の学校という意味ですね、片田舎の学校を表したものだということがわかります。」

「そういう意味でもう一度絵の中を見てください。ではこの学校の施設はどうですか。」

「ボロい。傷だらけや。机や椅子がつながっていて、僕らみたいに一人一つじゃない。」
「なんか、チョーク板みたいなのがある。それと先生の後ろの黒板が小さい。」
「カーテンも切れてる」「いや、これは折り曲げているんだろ」と別の意見。
異年齢の子どもたちについてはずっと前に気づいてくれていますが、
「子どもも少なくて、学校も部屋がないからみんな一緒に勉強してる。」


「では左の子どもたちはどんなお家なんだろうね。家族はどうでしょう?」

「貧乏。戦争で兵隊に行って死んだ。お父さんとかいない。世話してもらえない。」
「右は両親がいて面倒を見てもらえる。」

「昔、日本ではお金がなければ学校へも行けなかったんですよ。子どもたちは学校へ行かずに働かなければならなかったんです。でもこの子らはどうですか?」

「みんなと一緒に勉強してる。」
「違うところに座らされているけど、ちゃんと勉強してる。」

「ところで、この絵の色遣いはどんな感じがしますか?」

「…。」

「それじゃあ、暖かい感じですか、それとも冷たい感じ?」

「暖かい感じ…かな。」

「全体の雰囲気はどんな感じですか?厳しい感じですかそれとも穏やかな感じでしょうか?」

「穏やかな感じ。」



「それでは、ここで紙を渡しますから、ホーマーさんがどんな思いでこの絵を描いたのか、またそれがわかるのは絵のどんなところからなのかを書いてください。」

そういって紙を渡し、もう一度黒板に板書しました。

質問が難しいといいながら、それぞれ書き出します。
ほとんどの生徒はとにかくこれまでみんなで進めてきたことを思い起こしながら書いています。

オープンエンドにして、挨拶なしでベルが鳴ったら退室してよいことにします。休み時間が近づいているのに白紙の生徒を見つけたので、声をかけます。

「これまでみんなで見てきたことから考えたらいいんだよ。」というと「聞いてないもん、書けへん。」という彼女。「いやいや、それはないな。自分でも答えを言ってた場面があったでしょ。んじゃもう一度絵を見ようか。」そういって、これまでのやりとりを少しおさらいします。途中でチャイムが鳴りましたが、放ってはおけません。「この子はボロボロのズボンを履いているけど、うちは貧乏やしゆうて、すねているか?」「ううん、ちゃんと勉強してる。」「あ、わかった。勉強して賢くなってちゃんと仕事につけるようにって思いで、こんだけ頑張ってる子がいるんだってことを言いたかったんや。なあ、先生にしゃべったし、もう書かんでもゆるしてや。」彼女はそういって次の授業へ向かおうとしています。「わかった。今度だけは許したるわ。しゃあないな。」そういって彼女を解放しました。

3クラスの授業の後、一枚の絵がこれほど雄弁に語るものかと正直思いました。

「戦争」をキーワードに引っ張りすぎなかっただろうか、とか「差別や」との結論で終わらせてはホーマーさんは納得いかないのでは?とライブで悩んだこと、また、絵を改めて見ると確かにそのような場面に見えなくもないという思いに駆られたり…。

今回の授業ではクラスによって、生徒のふとした発言によって解釈の方向性が変わっていきました。理科や数学では答えがクラスによって違ってはならないでしょうが、こと鑑賞に関しては許されるのではないかと思いながらも、私自身の気づかなかった解釈にまで子どもたちが到達していく様子に驚かされました。

まとまりも何もありませんが、忘れないうちに記事にしておきました。